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説教(2017年8月27日)
■説教者:堀 正一 教区長
■御言訓読:真の父母経(第7編 第1章 第5節 7)
7私が興南の監獄から出てくる時に、それまで着ていたそのぼろを持って出てきました。それを売ったところで一銭にもなりません。廃品回収業者にあげても、見返りに飴の半分もくれないのです。三年近い歳月を送りながら、絹のズボンとチョゴリは人にあげてしまい、その囚人服だけを着て暮らしていました。触るとぼろぼろと綿のように崩れていくそのぼろが、何のために必要だったかというのです。それは、十年、一世紀、あるいは数十世紀が過ぎたのちには、億万のお金を出しても買えない宝物になるのです。
今、エルサレムにイエス様が使っていた箸が一膳でもあるとすれば、それはたとえイギリスを渡すといっても買えず、アメリカを渡すといっても買えないでしょう。このような言葉を、今日の若者たちが聞けば笑うかもしれませんが、千金、万金よりもさらに貴いので、困難な環境を克服してまで、それを持って出てきたというのです。
説教(2017年8月20日)
■説教者:堀 正一 教区長
■御言訓読:真の父母経(第7編 第1章 第3節 29)
29お父様は、りんご一つを握り締めて本当に感謝したことがあります。共産圏の監獄にいた時のことです。一年に二回、五月一日と一月一日には果物をくれます。
りんごが一つ配給されるのですが、自分で良い物を選ぶのではなく、順番に分けてくれるのをもらうのです。虫食いの物でも、どんな物でも、ただ配給してくれる物を受け取らなければなりません。りんごを分けてもらうと、普通の人たちは受け取るなりむしゃむしゃと、一分もかからずにすべて食べてしまいます。
しかし、お父様は、「この色は、どれほどきれいなのだろう!この色を味わおう」と考えました。そして、「色を味わい、それから味を味わってみよう」と考えました。そうすると、口を開けて食べようという思いが湧かないのです。食べずに取っておいてこそ、目の保養にもなり、匂いも嗅いだりできるので、食べようという思いをもつ自分になれないことを感じました。
かといって、それを持って行き来するような状況でもありません。ですから、食べることは食べるのですが、食べる時は、神様のみ前に祈りながら、「りんごを食べますが、私が世界で最初にこのような思いをもって食べます」という自負心をもって食べたことがありました。
説教(2017年7月30日)
■説教者:堀 正一 教区長
■御言訓読:t天聖経(第7編 第3章 第3節 7)
7皆さんは、今まで統一教会に入ってきて働いたといいますが、どの位置で働いたのかを考えなければなりません。自分が生活する立場で、個人的な生活と和合して働いたのか、天を中心として世の中と和合しようとしたのか、方向がどこで、位置がどの位置なのかを常に考えなければなりません。ですから、祈りながら、神様が「私」と共にいらっしゃるということを知らなければなりません。
それは、目を閉じさえすればすぐに分かります。祈らなくても分かるのです。どこかに行って話そうとすれば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人のところに行けば、「私」が引き込まれていきます。すべてが相対的です。自分の主体や対象になれば引きつけるのです。初めて出会ったからといって、相対にならないのではありません。その本質は永遠不滅です。それと同じように、そのようなところに行けば、心がうれしくて話したいのです。その境地に入っていけば、話そうとしなくても口が開くのです。