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平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
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説教(2016年6月26日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第10編 第2章 第1節 3.10)

3「私」が平和の世界を訪ねていかなければならないといっても、平和の世界はできていません。外部にはないのです。いくらアメリカに行ってみても、ロシアに行ってみても、世界のどこに行ってみてもありません。平和の世界は、私から始めなければなりません。世界と取り替えることのできない平和の心にならなければなりません。

10イエス様は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17.21)と言いました。天国は自分の心にあります。心自体を中心として見るとき、天国は統一された世界なので、心と体が統一された基盤になっていなければ、臨在することはできないのです。

ですから、統一教会は、世界統一を主張するのではありません。世界統一の前に国家統一がなければならず、国家統一の前に民族統一がなければならず、民族統一の前に氏族統一がなければならず、氏族統一の前に家庭統一がなければならず、家庭統一の前に個人統一がなければならないのです。最も根本になる心を中心として、個人統一をしなさいというのです。

カテゴリー:今週の説教 - 16/06/29掲載

説教(2016年6月19日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第8編 第4章 第4節 10.5)

10皆さんが行くところには、ありとあらゆる事情が多いのです。血を売ってでも伝道に出ていかなければならず、行く旅費がなければ千里の道もいとわずに歩いていかなければならず、自らの一片丹心を決めたみ旨に向かって山を越え、野を横切り、冒険をものともせずに行かなければなりません。先生が望むのは、皆さんがそのような立場で倒れても、天を恨んではいけないということです。皆さんがそのような立場で犠牲になっても恨んではいけないというのです。

 天国建設のかがり火を持って立ち上がった勇士なのに、どうして矢が飛んでくることがなく、どうして敵が包囲しないでしょうか。そのようなことがあるというのです。しかし、師のために生き、神様のために生きる心は、自分のためでなく、民族のためであり、世界のためです。ですから、そのみ旨に対して歩んでいく道は、死の道も喜んで訪ねていくべき道であり、それが統一勇士が行くべき道なのです。

5私たちは、今、神様の懐に戻ることのできる近い距離にあります。ですから、私たちは、「私」自身がどのようにすべきなのかを考えなければなりません。私たちがみ旨を知って行くこの道は、私が救われて祝福を受けるために行く道ではありません。それはみ旨ではありません。み旨に従いながら私が家庭を必要とするのは、世界人類に貢献できる家庭をつくるためであり、氏族を必要とするのは、民族と国家と世界に貢献できる氏族をつくるためです。ですから、そのような立場に立って、この思想と一致して動くことができなければならないのです。

カテゴリー:今週の説教 - 16/06/21掲載

説教(2016年6月5日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:真の父母経(第5編 第3章 第4節 3)

3きょう、献貢日を迎えて、皆さんが参加したこの場に来るまでの道は、涙の道でした。この場は涙の場です。どれだけ泣いても止められない涙の場であり、痛哭しても形容し難く、どんなものによっても遮ることができない場です。ただ、自らの心の奥深くに、他の人が知らない抱負をもったとすれば、何か外的な物をもっていることが福であると思うのではなく、心の奥深くにもっているこの怨恨とこの悔しさを、億万のお金とも換えられない無限の価値のものとして感じなければなりません。

これを貴く思うことができ、これを完結するための責任を背負うことができる心が必要です。
 その心を、皆さん全体の中心心情として仰ぐようになるとき、神様はここで初めて、六千年の深い悲しみを私たちに相続させることができるというのです。

 この場は、神様の悲しみ全体を厳粛なものとして相続する場です。それを相続しておいて、父が立てようとされた本然の万物を、万宇宙と世界に、父の喜びのものとして復帰してさしあげる基盤を築こうという信念だけが、皆さん自身にとどまらなければなりません。そのようになってこそ、ここに参加できる資格をもつことができるのです。悲しい歴史をもった天の曲折を忘れてはいけないというのです。

カテゴリー:今週の説教 - 16/06/07掲載

説教(2016年5月29日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経

(第4編 第2章 第3節 25)
25神様のみ前に立っていたアダムとエバが、神様の内情を探ることができていれば、堕落しようにも堕落できなかったはずです。父母は父母として、子女に対して愛の心をもっているのに、子女は父母の深い心情までは分からなかったというのです。

 もちろん、幼くて堕落したのですが、その年齢の幼さが堕落の動機になったのではなく、心情が及ばずして堕落したのです。「あの方は私のためにいる。あの方は私と共にいる。あの方は私と一つである。あの方は永遠に、私と離れようにも離れることができない」と言いながら、神様が一切の問題に関係していることをアダムとエバが感じることができていれば、彼らは堕落できなかったでしょう。

 結局、心情の一致点をもつことができず、神様の願いと自分たちの願いが食い違い、自分の考える方向が神様の考えるものと違ったために、そうすることがそれほど大きな問題になるかが分からず、そうなれば生命の死活問題がどうなるかということを骨肉にしみるほど感じることができずに堕落したのです。

(第6編 第2章 第3節 11)
11喜びは、どこから来るのでしょうか。心の要求に体が応じるとき生じます。心と体が完全な主体と対象になって四位基台を形成すれば、心が願うとおりに体が動くようになります。そのような立場で喜びが来るのです。宇宙の原則である天運が擁護してくれるので、神様と出会える距離が次第に短縮されて、近くなるので喜びが生じるのです。

 しかし、良心の呵責を感じることをして心の相対要素がなくなるときは、結局その主体までもなくなるのです。宇宙の原則というのは、主体だけがいると、対象が反対しなくても追い出す力が必ず現れるようになっているのです。それが悲しみとして現れるのです。喜びと悲しみは、「私」が原因となって生じるのです。

カテゴリー:今週の説教 - 16/06/03掲載
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