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今週の説教

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説教(5月29日)

■題目:信仰生活の柱

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:天聖経「真の神様」

真のお父様の見た神様

皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。

その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。

全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。

神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。

サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。

神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史路程を経ながら苦労される必要はないのです。

人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。

皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。

■説教内容

私たちの統一運動の目的は何かということを考えてみる時に、様々な形での表現が可能かと思いますが、真のご父母様はそれを“One Family Under God”、という言葉で表されていると思います。日本語に訳せば「神様のもとにある一つの家族世界」というところが私たちの統一教会を中心とした、統一グループの最終的な目的であると言えるでしょう。

 私たちは、同じ親の元、神様という共通の親の元で人類は、同じ兄弟姉妹、その同じ兄弟姉妹が一つとなって、自由で平和で幸福な世界を作って行こうという、これが統一運動の最終目的地であります。

 神様について考えてみると、その神様は、私たちの共通の親であると考える事が出来ます。しかし共通の親であっても、神様の姿をそれぞれ見つめる見つめ方は10人いれば10人、100人いれば100人の異なった見つめ方をしていると思います。

 なぜかと言えば、私たちは、誰しもが親から生まれてきました。私にも両親がいて、その両親から生まれてきました。皆さんもそうだと思います。私たちは親から生まれてきたという点では、同じ立場に立っていますが、しかし私たちの親は同じではありません。私の両親は皆さんの両親と同じではなく、皆さんの両親も私の両親ではありません。そのように考えると私たちは神様が共通の親とはしていますが、その親は一人一人にとっては、決して同じではないのでは、ということがよくわかってきます。

 先ほども言いましたように、10人が10人、100人が100人見つめる神様というのは、一人一人異なったイメージを持ちながら、私たちは親なる神様の前に、息子、娘として歩んでいくのだということなんだと思います。すなわち、神様と私たちの関係は本来的に、非常に個人的な関係、パーソナルな関係だということができると思います。

 その神様といかに、私たちの信仰生活において、心情の因縁を結びながら、歩んでいくかということが、とても大切なのではないかと思います。英語の表現で、驚く時に“Oh,my God!”というのがありますが、「ああ、私の神様」と直訳できるわけですが、キリスト教の基盤があるだけに、神様と私たちの関係が非常に近しいものと感じられるときがあります。文字通り、神様と私という個人的な関係、個人的な因縁がどう結ばれるのかということが、とても重要なのではないかと思います。その観点からみると、私たちは同じ食口として同じ神様を親として歩んでいます。

 私たち一人、一人が見つめる神様のお顔、神様の姿は、決して同じなのではなくて、みんながそれぞれの生い立ちやそれぞれの背景から違った神様の姿を見ているということになります。同じ親であったとしても、それは同一ではない、同じ兄弟であったとしても、兄のみる親と弟のみる親の姿は違っているかもしれません。

 信仰生活の中でその神様とどのように個人的因縁を作って、信仰生活を歩んでいくかがとても大切なのです。ところで、私たち人類の実体の親である真のご父母様は、そのお父様が見つめてこられた神様の姿は一体どのようなものであったのでしょうか。その神様については統一原理で学んできました。直接的には創造原の第1節、神の二性性相と被造世界の個所で神様がどういう実体であるか、単的にその部分で語られています。

 広く考えてみると、創造原理から再臨論まで、統一原理全体が表している神様はどのような姿であるか、それは一般の方が抱いている神様のイメージとは同じではないと思います。一般の人々が神様に対して抱いているイメージというのは、全知全能の神様、栄光の神様、愛なる神様というようなイメージを抱いているのではないでしょうか。

 しかし栄光の神様というのはどうでしょうか。皆さんが毎日侍っていらっしゃる神様は栄光の神様なのでしょうか。少なくとも、統一原理を通して現れている神様の姿は栄光の神様ではありません。本来なら栄光の神様でなくてはならないのですが、現実に見えてくる神様の姿は栄光の神様ではないと、私たちは統一原理を通して知ることができました。原理を通して見えてくる神様の姿はどういう神様の姿かというと私は、悲しみの神様ではないかと思います。

 そしてその神様はどういう歩みをしてこられたかとういうと、それは本当に私たちは考える事も出来ない、苦難の道を歩んでこられた神様であって、その神様がご父母様が私たちに教えて下さっている神様ではないかと思います。

 神様が悲しんでこられた、神様が苦しんでこられた、こういうことは一般の人々が考えたでしょうか。彼らはそのように考える事は出来ないと思いますし、私もこの教会に導いてこられるまでそんなことを考えてみたこともありませんでした。皆さんはどうでしょうか、そのように考えてみたことがおありでしょうか。神様が苦労し、涙を流されているなどと一体誰が思ってみたでしょうか。

 私は19歳の時にこの教会に導かれてきました。また私はクリスチャンではありませんでしたが、私の中で神様はどのような存在であったかというと、やはり天の玉座に鎮座ましておられる神様というのが私の描いていた神様の姿であって、どういうことが起きるかとういうと、19年の私の生涯においては悲しいこともつらいこともありました。

 そういう時にその栄光にあるという神様のことを思ってみると、言葉が適当ではないと思いますが、私は神様に対して疎外感を感じたことを思い出します。本当に何か、神様というのは虚しいなあということを感じていました。つらく苦しんでいる私が神様とは無縁のものと思えたからであります。

 しかし統一原理を聞いてみると、神様が悲しんで苦労されていると知って、私は驚きました、私の神観は覆されてしまいました。そういう神様であったのかと本当にびっくりしました。そしてそういう神様であることを知って、私がその19年の間に抱いてきた様々な問題が解けたような気がしました。ああ、そうか、神様は悲しみの神様であり苦しみの神様である。神様がそのように苦労して歩んでこられた道を私たちも象徴的に歩んでいるのだなあと思った時に自分の歩んできた19年の人生がスッと解けたようなそんな気がしました。

 そして苦労の神様、悲しみの神様と聞いていましたので、私は神様のために生きたいと思いました。なぜなら私の中には、親孝行したいという気持ちがあったからでした。皆さんも色々な家庭環境の中でご両親に愛されて育ったことだと思います。私も家庭の中で両親の愛を受けて育ってきたという実感がありました。

 私の両親はすでに他界しておりますが、本当に素朴な人間でお茶とみかんの農家を営んでおりました。みかんの消毒や、出荷の時などは今とは比べ物にならないほど苦労が多く、常に働き、苦労していたと思います。

 今でこそレジャーを楽しむということもありましたが、当時はそのようなこともなく、「ああ、寝る時が一番楽でいい。」という母親の言葉は、本当に悲しく、今、大人になって、そのこと思うとなんとも言えなくなります。一生懸命に働く親の姿を見て、親には迷惑をかけたくない親孝行したいという気持ちが芽生えてきました。

 19歳までぐれる事もなくなんとか歩んでこられたのは、苦労する親の姿を見ていたからで、何とか守られたのかなあと思います。そして19歳の時神様が悲しみの神様であり、苦労されている神様であり、そしてその神様が親なる神様であることを知った時、神様のために親孝行をしたい、この道を行きたいと思ったわけです。

 さて神様と私たち一人一人の関係はそれぞれ違っていると思います。それではお父様と出会っている神様は、どういったところで出会っているのか。それはこれまで誰もわからなかった神様の悲しい心情、神様の苦しい事情を他の誰よりもよく知っておられるのが真のお父様であります。

 実際に今日、訓読していただいた、天聖経の中の「真の神様」に、お父様と出会った神様、お父様がご覧になった神様のことがいくつかの項目に分かれて書いてありますが、そのみ言を読んでみる時に、真のお父様ほど神様の悲しい心情を知っておられる方はいないということ、本当に神様の悲しい心情と苦難の道のりをずっと見つめてこられながら、神様の前に親孝行したいという心情で、この復帰摂理の道のりを一目散に歩んでこられたのだと思います。もう一度このみ言を皆さんとともに訓読したいと思います。

(以下、「真のお父様の見た神様」を皆で訓読。)

 このように「真のお父様が見た神様」のみ言を見ると神様の心情を見つめながら、親孝行をしたいと思われるお父様の心情を見る事が出来ます。私たちも成約聖徒として導かれた立場として、神様の苦労する世界を日々の信仰生活の中で見つめる努力をしなければならないのではないでしょうか。神様の歴史は悲しみの歴史として出発しました。その神様の悲しみの歴史はアダムの家庭から出発しました。物事というのは、見つめる方向が変われば、その事実が異なったように見えてくるということがあります。

 ですから私たちが聖書を読む時、そこには神様の心情を推し量る内容はあまり見えてこないのですが、原理のみ言を中心として見ると神様の心情がよくわかると思います、例えば、アダムとエバが堕落してその身を隠してしまった時、神様は彼らがどこにいるかわからなかったはずはないのですが、神様が、アダムとエバのところに来て、アダムとエバに「あなたはどこにいるのか」と聞いた時のその一言の中に、神様の悲しみと落胆がどれほどのものであったかが分かります。神様がアダムとエバの堕落を通してそれがどんなに神様にとってショックな出来事であったか、原理を通して私たちは学んできました。

 そして子供であるアベルとカインの時から、救いの摂理が出発しました。メシアを送らなければならないが故に、人間が信仰其台と実体其台を造成しなければならないので、その責任分担を全うさせるために、神様はアベルは顧みられたが、カインとカインの供え物は顧みられなかったのですが、顧みる事が出来なかった神様の心情はどれほど痛んだでしょうか。本当は、蕩減復帰の道を歩まなければならないカインに対して、神様はカインを慰労し慰めてあげたかったに違いありません。どれほど悲しかったでしょうか。つらかったでしょうか。親としての愛をカインに表してあげる事が出来なかったのです。

 このアダム家庭について書かれた少しのことの中でも神様の心情を垣間見ることができます。神様の言うに言えない事情、苦労している事情があるのです。私たちが信仰生活の中で、神様から、多くの恩恵を受けながらも、神様の心情の奥深くを訪ねてみる時には、神様のそのような悲しくつらい心情の世界を知ることができるのではないでしょうか。親が苦労しているという事実があるのです。

 先日、スイスでの宣布大会に、宋総会長が同参され、訓読会に参加されたときに、真のお父様が泣きながら訓読をされ、その場にいる責任者たちに涙ながらに訴えられておられたということです。お父様は涙なくして語ることができないし寝ても寝られず、食事ものどを通られない様子であり、そこには切実な心情と深刻な事情をお持ちであります。

 そういうお父様が見つめられる神様はいまだに解放されていらっしゃらないのではないでしょうか。そういう神様の心情を見つめながら、お父様は切実な心情と深刻な事情をお持ちであります。そういうお父様が見つめられる神様はいまだに解放されていらっしゃらないのではないでしょうか。そういう神様の心情を見つめながら、お父様は今も、前線に立って闘っていらっしゃいます。

 私たちは神様の愛に包まれ、信仰生活を送っていますが、時には神様の心情と事情を求めて、お祈りすることも必要です。あなたの事情と心情を知らしめてくださいと。

 喜びを語るということはそう難しくはありませんが、信仰生活をする中で、皆さんがこれまでの人生の中に悲しかったこと、つらかったことを皆さんの前で話すことができますか。私は語ることができません。それは私と神様の間のことです。神様はこれまで、どれほどつらく悲しく、大変だということを人に語ることができませんでした。神様はあからさまに表したかったことでしょう。イエス様もそうでした。ゲッセマネのお祈りの時、あまりにも、切実で深刻であれば、お祈りも一人でお祈りされたはずです。

 ゲッセマネのお祈りの後、イエス様は弟子たちに、「私は、悲しみのあまりに死にそうである。」と語られました。だれかイエス様の心情の相対に立つものが一人もいなかったのです。その心情をだれにも語ることができませんでした。深い悲しみをその胸に秘めながら、誰にも語ることができませんでした。お父様ただおひとりそのようなイエス様の心情を私たちに教えて下さったのでした。

 以前お父様が21年ぶりに日本に来られて、み言を語られた時、「イエス様はどんなお方だったのですか?」という質問がありました。その時お父様は、しばらく天井を向かれてから下を向かれたときに、その時、水の落ちる音がしたということです。イエス様を思えば涙せざるを得なかったお父様であります。本当に神様の心情を知る方は誰でしょうか。本当に神様を思えば、痛哭せざるを得ません。

 復帰の道を歩む私たちは神様の事情と心情を求めるものでなければなりません。神様の事情と心情に責任を持つ事が出来る私たちでなくてはなりません。

 私たちの教会の歴史は涙の歴史といわれています。多くの食口の涙にぬれた道でありました。60年代には親泣かせの原理運動といわれました。その時多くの青年たちが信仰の道を出発しましたが、マスコミはこぞって親泣かせ原理運動と糾弾してきました。しかし、本当の神様ご父母様に出会い出発してきました。私たち統一信徒が持つべき心情はいかに、親を慰め、孝行して差し上げるかということであり、それこそが私たちの信仰的核であり、柱ではないかと思います。今日、外は雨ですが、神様の涙のようでもあります。

カテゴリー:今週の説教 - 11/05/31掲載

説教(5月22日)

■題目:天地人真のご父母様ヨーロッパ巡回講演の意義

■説教:徐 辰泰 副教会長

■御言訓読:天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会のみ言

今回の大会に参席してくださった貴賓の皆様、新たな大会でお会いすることができて、本当に嬉しく、感謝いたします。

私が今日、皆さんに宣布するみ言は、真の父母の生涯の中で、すべての復帰摂理歴史の最終終結と完成を宣布するための今回の真の父母様の巡回路程であることを知らなければなりません。真の父母様が歩んで来られた道は、歴史的標本となる伝統であるので、その道を皆さんの人生の手本として歩かなければならず、真の父母様が完成されたみ旨を相続して完結させることを誓い、実践する家庭になることを宣言するのです。

私は去る3月16日、第52回聖婚記念日を迎えて、罪悪と蕩減の先天時代が終了し、真の愛で回復して新天新地を成し遂げていく後天時代を宣布しました。

今回の巡回路程を通して、後天時代の生活が展開されたということを皆さんが肝に銘じなければなりません。

真のご父母様の血族である、天上と地上世界のすべての祝福子女たちは、無形の神様と有形の神様、夜の神様と昼の神様、イエス様の先祖からそれ以上の国、真の父母の先祖からそれ以上の国を完結するための全体的で最終的な宣布であることを肝に命じなければなりません。

真の父母様の生涯路程は、自身の自叙伝を通して皆様にすべて公開され、皆様に伝えられています。

今回の天地人真の父母定着実体み言天宙大会が完結されるまで、皆さんすべては、真の父母の代身者、相続者となられ、真の父母様がこの地上に生きておられる間、勝利の覇権をたてるため、生涯の必勝を記録した自叙伝と実績、与えられたみ言、これらすべてのものを相続して、皆さんの人生も必ず勝利されるようにお祈りするものです。

皆さんは、真の父母様がそうであったように、皆さんの周囲のすべての親族と一族に、天上の橋となり、天の国へ一族を案内する縦的なはしごにならなければなりません。

このような真の父母様の宣布を受けて肝に銘じ、実践することを誓ってくださるようお願いします。
アージュ

カテゴリー:今週の説教 - 11/05/31掲載

説教(5月15日)

■題目:み言の鎧をつけなさい

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:み旨の道

御言が財産である。

休む時(床につく時)原理をだいて休み、起きる時原理を中心として起きなさい。
今皆さんは原理を知ったとしても、原理の活用法は研究しなかった。
原理を活用することを知らねば原理的生活が出来ようか?

御言を心と頭だけで知るのではなく体でわかって行いなさい。
我々は、御言で武装された実体ー即ち、御言の原子爆弾とならねばならない。それ故爆発すべき目的地に行って不発弾となってはならない。

原理をどれ程知ったかが問題でなく、どのくらい実践したかが問題である。

■説教内容

み旨の道の中から4つのみ言にかかわる内容の訓読をしました。私達人類にとってみ言は財産であると心から感じております。天地人真の父母定着み言実体宣布大会を勝利され、今日私達に八大教材教本のみ言を伝授して下さいました。

このみ言は私達にとっての遺言であり、真のご父母様から相続させていただく私達の宝であります。このみ言をよく訓読し、活用し、み言によって生活し活動する事が信仰生活にとって重要であると思います。

今日はカイン・アベル問題を中心にお話したいと思います。み言はとても尊いものだと思いますが、教義となっている統一原理はお父様が16歳から25歳の9年間にわたるサタンとの血みどろのたたかいの中で勝ち取られたみ言であります。原理講論の項目ひとつひとつが解き明かされるのは大変だったと思います。

例えば、項目のひとつを私達の人生の課題として与えられたとしましょう。たくさんの書物を読んで、いろんな事を経験したとしても肉身と霊人体の相対的関係についてはっきりと解明できる人はどれ程いるでしょうか。

サタンとまともにたたかってサタンの正体やサタンの活動を解明するのは、最初からお手上げ状態ではないでしょうか。なぜ再臨復活するのか、その方法、理由まで解き明かそうとしたら一生あっても難しいと思います。

創造原理から再臨論まで体系化し私達に示して下さったのです。普通の人間には難しい、神様から特別な使命を受けたメシヤにしか成す事はできない事は明確です。

ある食口の方からこんな話を聞きました。その方はミッション系の大学に行ってました。先生から語られた内容がアダム家庭の事でして、アベルとカインの供え物の話で、カインは野の産物を、アベルは羊の中の肥えた物と初子を持っていくわけです。神様はアベルとその供え物はかえりみられて、カインとその供え物はかえりみられなかった。これを解明しようとしたら本当に難しい事です。

その時に食口が聞いた先生の説明は、どんなニュアンスで語られたかは分りませんが、「神は肉料理が好きだった、野菜料理は好きではなかった」と説明されたそうです。私達は原理を知った立場ですから吹き出してしまうような答えですけれども、もし原理を知らなかったならばせいぜいそれぐらいの答えしか出来なかったと思います。あぁそうなんだな、と満足するしかありません。

実際多くの人が聖書を読んでいますが、何ゆえにそうしたのかは全くわからず、何でかなと思いながら前に進んで行くに違いありません。原理を知ったという事は本当にすごい事だと思います。

アベルとカインにおいて重要な事は何かというと、何ゆえに神様がアベルを選んだのか、それは原理の観点からすればカインが最初に生まれた、アベルが次に生まれたという順番の問題だったという事がわかります。

実際、原理講論ではアベルが神様が相対する善性品の表示体としてたてられ、長子のカインはサタンが相対する悪性品の表示体としてたてられた理由というものが原理講論に2つかかれています。

1つは堕落の動機と経路にかかわっています。人間の堕落は2回ありました。最初が天使長ルーシェルとエバとの霊的堕落、次がアダムとエバとの肉的堕落、霊肉共の堕落がありました。この2回の堕落を、その動機と経路の形とすると、最初の堕落は過分なる愛の欲望を動機として、僕と神の子エバの非原理的な形で関係をもった。

それに対して2回目の堕落は、動機としてはもう一度神に帰りたいという相対的に善なる動機で、形としては原理的です。1回目と2回目の堕落の動機と形という観点から見た時に、神様は2回目の堕落の方が心情的に受け止める事が出来た。

1回目の堕落の実として長子のカインをみたてた。そして2回目の堕落の結実としてアベルをみたてた。それ故に長子のカインがサタンが相対する悪性品の表示体、次子アベルは神様の相対する善性品の表示体という形となった。

2つめはサタンがより長子に未練を持っていたという事です。それで神様は次子のアベルをとったというふうに書かれているわけです。なぜカインがサタンが相対する立場で、アベルが神が相対する立場にたったかというと、先に生まれたか後に生まれたかという順序の問題です。

言い方を変えれば立っている位置の問題だったという事を理解する事ができます。もちろん聖書によるとアベルは供え物を持って行った時に肥えた物と初子を持って行ったと書かれています。

その一文からするとアベルは供え物を持って行く時に心から感謝して喜んで持って行ったのではないかと推測できます。もしカインが不平不満の心で持って行ったとしたらカインは羊の群れの中でもあまり良くない物を持っていったのでしょうが、アベルは群れの中で一番尊い物、一番良い物を持って行った訳ですから、アベルは非常に感謝して喜んで真心をもって捧げていったのではないかと憶測されます。しかし純粋に原理の観点からみるとアベルは感謝して喜んで持って行ったから神側にたった訳ではないという事です。

生まれた順番の問題、立っている位置の問題だったという事がわかります。従って私達の信仰生活においてもアベルカインの問題は非常におおきな意味を持っています。アベルとカインの問題なくては私達の信仰生活はありません。

もちろんアベルとカインは相対的ですから、ある一方を向けばカインの立場に立っていますが、また反対方向を見れば私達はアベルの立場に立っています。

ですからカインの立場でもあり、アベルの立場でもあるわけですけれども、このアベルとカインによって連結される私達の信仰生活ですけれども位置というものは本当に原理によるもの、天から与えられた位置によるものであって、人間の目で判断してなるものではないです。

原理によるものだという事を良く理解しておかなければなりません。その内容を理解できていないと私達は原理軌道から引っかかってしまう事もあります。実際にアダム家庭におけるアベルカインを考えると非常に難しい問題があります。カインは年長であり、経験があり、苦労した立場です。それに対してアベルはどうかというと年下であり、経験も乏しく、苦労も少ないという立場でした。

アベルを中心としてアベルとカインが一体化しなければならなかったと書かれています。それで原理ではカインの責任がかかれています。カインはアベルを神の立場で愛さなければならなかったし、カインはアベルを仲保として神に通じなければならなかったし、カインはアベルに従順屈服しなければならなかったし、カインはアベルを通して神のみ言を受けて善の繁殖をしなければならなかったとカインの責任が強調されて書かれています。

カインの立場も大変難しかったと思います。原理講論には書かれていませんが、アベルはアベルとして本当に謙虚にならなければならなかったし、いつもカインを神様につなげる事が出来るように努力しなければならなかっただろうなという事を勉強してきました。

2人はアベルを中心として一体化しなければならないと書かれています。もしこれが反対でカインを中心として一体化しなければならないとしたらどうでしょうか。

きっとそれ程難しくはなかったのではないでしょうか。何故ならカインの方が経験もあるし苦労もしていますから、次男のアベルは自然にお兄さんの言う事を聞いてお兄さんに侍り一体化できるようになったのではないでしょうか。もし実体基台というものがカインを中心として一体化するというならそれ程苦労はなかったのではないかと思います。

しかし残念ながら原理の語っているところはそうではありません。年下で経験も少なく苦労も乏しいアベルを中心として一体化しなければならなかったから、とても難しかったという事になります。あくまでも天から与えられた位置によるものであって人間的なものではないという事が良く分かってきます。復帰摂理を見てみるとこれはアダム家庭の摂理だけではなくて、だいたいそれ以降同じような摂理が展開されます。

一番良い例が、イエス様を中心とした摂理においても洗礼ヨハネとイエス様が出てきます。アベルカインに当てはめれば、洗礼ヨハネがカインでイエス様がアベルの立場です。

イエス様に侍って第1弟子となってイエス様の基盤をつくっていかなければならなかったし、イスラエル民族もイエス様を信じてイエス様と一体とならなければならなかったというところが原理の教えているところです。しかし当時の社会的状況を考えてみた時に、洗礼ヨハネは家柄も良く、奇跡の中で生まれました。大変素晴らしい人格であり一生懸命修道生活をしていました。人々の噂にメシヤではないかと自然に出てくるほどでした。

それに対してイエス様はどうかと言うと、大工の息子であり、家もごたごたしていて、律法の教えを否定したり破っているように見えました。従ってその当時の人々にはイエス様を信じるのが難しかった。イエス様が洗礼ヨハネはエリヤであると証したにもかかわらず、洗礼ヨハネは私はエリヤではないと言った。エリヤの問題に対して決定的な違いが出てしまった。

その時にみんな洗礼ヨハネを信じた。洗礼ヨハネにとってもイエス様を信じるのは難しかった。イスラエル民族も洗礼ヨハネの言葉を信じ、イエス様は十字架に追いやられてしまいました。天がどういう位置にたっているのか、人間的に考えれば本当に洗礼ヨハネがメシヤで、イエス様が洗礼ヨハネだったらどんなに良かったかと思いますが、実際の歴史はそういう風になってはいなかったという事です。

従って私達の信仰生活において、天から与えられた位置を中心としてアベルとカインが決定されるのであって、アベルはアベルとして、カインはカインとして正しくその本文を果たしていかなければならない。具体的な歩みにおいてもアベルとカインという問題を人間的に見ると、時には過ちを犯すのではないかと思っています。

人間の目で見るという事は、私達の信仰生活によっていつも正しい判断だとは限らないという事を原理は教えてくれている訳です。一般人の常識から見てこうなるのが妥当だろうという判断を下して行動するという事です。

それがいつも正しいとは限らないという事を理解していなければならない。アベルとカインという問題は人間的な目で見るのではなくて原理を通して神の目で見てみるという事が私達にとって大切な事です。いつもみ言に立ち返ってみ言を中心として自分の目ではなくて神の目で見ていく、天の眼差しで見ていくのが重要ではないかと思います。

終末とはサタンを中心とした悪主権が滅んで、神様を中心とした善主権が現れていく、その善と悪の交錯の時が終末であると語られています。終末は過ぎ去ったと認識していた事がありました。なぜならワシントン大会を見事に勝利されました。実際に世界を見てみると共産主義がどんどん滅んでいきました。

ピークは越えたのかのかなと思っていた時がありましたが変わりました。今が終末であり、本当の終末はこれから来るのではないかと考えが変わっています。2013年1月13日天一国創建までいろんな試練が襲ってくるが、その試練を押しのけながら天一国創建まで歩みぬいていかないといけない、その時に最終的に頼るべきはみ言です。

目に見えないサタンとたたかう武器は2つだと言われています。
1つは祈りです。絶えず祈らなければなりません。祈りは呼吸だとも言われます。祈っていると霊的に善悪というものが分かってきます。霊的感性を保ち続けるのが必要です。

もう1つはみ言です。いつもみ言を訓読し、み言による判断をしていかなければなりません。み言をよく学び、活用して歩んでいかなければならないと思います。アベルとカインの問題も自分の目に頼るのではなくて原理に立ち返って、原理を通して天と神様の眼差しを中心として判断していくという事が、アベルの立場であろうともカインの立場であろうとも、その原理を通して正しく判断していくのが極めて大事ではないかと思います。

時には不条理だな、不合理だなと思う時は、人間的判断に終わらず原理の目で物事をよく見つめていくのが重要である。人間的になりすぎない、原理で賢く判断するのが重要ではないかと思います。いつも神様につながり、真のご父母樣につながっていくためにはしっかり原理で武装し、原理で鎧をつけていくのが重要だと感じています。

これから本格的な本然の時代、後天開闢時代、実体の世界があらわれる時となりました。新しい時代を迎えて、原理を活用し、個人から家庭に至るまで努力していかなければならないし、天一国という実体の神の国をこの地上につくっていかなければならない時を迎えています。

お父様は今ヨーロッパにおられます。2ヶ国で大会をし、アメリカへ行かれます。ある国には数家庭しか祝福家庭がいません。当初大会は予定されていませんでしたが、お父様が来られて急遽準備し800名の大会が成功しました。天地人真のご父母様を迎える人類として、国としての基盤が充分になされていなかった事を悔い改め、決意して築いていかなければならない。

ひとりひとりの責任、天の期待が大きいと感じます。アベルカインの問題もしっかり原理を通して判断し、神様の願った方向に進んでいく事が大切だと思います。み言で武装し、み言の鎧をつけて、しっかりと前進していきたいと思います。

原理を深く勉強する事によって神様の心情を近くに感じることができます。親なる神様ですからカインとその供え物もかえりみたかった心情ははちきれんばかりの思いがあったと思いますが、蕩減復帰の道のりを歩まなければならない人類の前に親として充分その思いをあらわすことが出来なかった悔しさ、無念さがあったと思いますが、原理を学ぶ事を通して神様の深い心情世界が垣間見えるのが理解できるのではないかと思います。

もう一度原点に立ち返って原理を学び天一国創建まで前進していきたいと思います。

カテゴリー:今週の説教 - 11/05/16掲載

説教(5月8日)

■題目:神を信じて前進しなさい

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:創世記(第28章18節~22節)

ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。

ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

■説教内容

一般人は宗教に良くないイメージを持つ人が多いです。信仰を持つと弱い人に思われることもあります。しかし信仰の道の本質は強くなければ全うすることが出来ないということなのです。

それは、サタンとの闘いの道のりです。闘いなので強いものが勝つことになります。強くなくてはならないのです。信仰者は勝利者でなければなりません。

真のお父様はすべての闘いに勝利してこられました。そして数々の勝利宣布をされました。サタン屈服の典型路程を私達に示してくださいました。

我々の教会でも勝利宣布と億万歳をよく行います。私達に大切なのは「いつの時も神様が私と共に居て下さる」という確信です。

アブラハムはもともとカルデヤのウルという町に住んでいました。それはチグリス・ユーフラテス地域であり、メソポタミヤ文明の中心都市でありました。当時と しては大変住みやすい所であったと考えられます。

しかし75才になっていたアブラハムに神様は、ウルを離れるように言われました。ウルでは友人や知人もたくさん居たでしょう。生活の基盤もあり、そこで成功もしていたでしょう。そんな中で神様のみ言を受け入れるのは決して簡単ではありませんでした。

しかも神様のみ言は「私の示す所に行きなさい。」というだけであり、行き先が明確に示されていなかっただろうと思われます。しかしアブラハムはひたすら神様を信じて行きました。

結果的にはその場所はカナンであり、かなりの距離がありました。神様を信じてそのごとく行動したアブラハムの信仰はすごい事です。

80才のモーセにおいても同じような事がありました。ある日シナイ山が燃えはじめ、その山火事が治まらないことが気になってシナイ山に行ったモーセは神様の召命を受けます。

シナイ山にたどり着いたモーセは「そこは聖なる場所なので靴を脱ぎなさい」という神様の言葉に驚きます。そしてエジプトに今すぐに行きなさいと神様から言われます。エジプトで虐げられているイスラエル民族を救い出すように神様から言われたのです。

もともとエジプトの宮中で40年間暮らしてきたモーセは、そこで暮らす200万人のイスラエル民族がどれだけ虐げられているのかをよく知っていました。その200万人のイスラエル民族をエジプトから導き救い出すのは誰が見ても困難なことでした。

そしてモーセはどもりであったと言われています。そのモーセが多くの民を導いていくことは困難だったでしょう。最初は神様のみ言を受け入れられず、何度も断りました。しかし神様はあきらめませんでした。ついにモーセは折れて神様の命に従いました。

聖書を見ると、神様の召命はいつも簡単ではなく、常識的に理解できない内容が多く載っています。ノアの時は箱舟を山の頂に造るように命じられました。これも常識的には理解できませんでした。アブラハムのイサク献祭の時は、神様が「あなたの子孫は星のように増えるだろう」と祝福されたにもかかわらず、子供であるイサクを献祭するように命じられたのですからそれも常識的には理解できないことでした。

私達が神様と共に行くのは簡単ではありません。真の父母様も先人達のごとく神様から様々な困難な啓示を受けてこられました。真の父母様の示される内容、平和大使任命、自叙伝配布、祝福、これらのことも人間的に判断してはならない内容です。

キリスト教が使命を全うできず、お父様が神様からプッシュされてきた道のりはどれほど困難な内容だったでしょうか。本当に焦りながら、休むことが出来ずにこられたでしょう。次々に峠を越えなさいとどれだけ神様から言われ続けておられるのか分かりません。お父様が日本をプッシュしておられるのは神様がお父様をプッシュしておられるからなのです。

絶対信仰・絶対愛・絶対服従が大切です。神のみ言をそのごとくに受け入れていく事が大切です。2013年1月13日までに多くのことをなしていかなければなりません。天一国創建に対してなすべきことがあります。いまその佳境に入っています。

ヤコブはベテルの地で休んだ時に天使を見て、神様が私と共に居られると確信しました。そして神様に誓って契約しました。神様と出会ってからのヤコブは見違えるように全く内的に強く変わっていました。

エサウから逃げてきた時のヤコブは自信も無く、おどおどとしていたのですが、神様と出会ってからのヤコブは堂々とふるまう様になりました。

それからの長い路程は、昼は暑く、夜は寒くてまともに眠ることも出来ない苦役の路程でしたが、よく耐えて家族と財物を引き連れて故郷に帰って来る事ができました。

故郷に帰ってきたと言っても最初エサウはヤコブを殺そうと待ち構えていました。しかしそこでもヤコブは神様を信じて知恵と勇気、信仰でエサウを屈服させることが出来ました。

この例えのように神が私と共に居てくださるという確信が大切なのです。私には何も無いが私を通して神様が共に働いてくださる、事を成してくださる。必ず神様は私を通して役事なさるという確信が大切です。

最後の時に私達の信仰をもう一度チェックしてみる必要があります。今まで神様が私達を訓練してきてくださいました。いよいよこれからが本番です。信仰はいつも現在進行形(be+~ing)でなければなりません。過去に何かをやったからもうよいのではありません。過去を語る必要はないのです。真の父母様は勝利されてもなお進み続けておられます。

この教会にも80才を超えて伝道前線を歩む実践部の教会員が居られます。私も頭が下がります。神様の声に耳を傾けてそのみ言を受け入れて前進し続けることが重要です

前進、留まる、後退の3つしかありませんが喜びも希望も前進から生まれます。今回のお父様の世界巡回は、復帰摂理の最終終決と完成を宣布するための巡回路程です。私達も氏族メシヤとして勝利すべき時を迎えました。私と共に働き、役事して、事を成したい神様をよく知って前進する一週間といたしましょう。

カテゴリー:今週の説教 - 11/05/10掲載

説教(5月1日)

■題目:95+5=100

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:ヨハネによる福音書(第5章16節~18節)

そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

■説教内容

この題目は、神様の責任分担と人間の責任分担が合わさって成されていくという内容です。
人類に真の父母様が残してくれた功績はとても大きいです。特に真理を解明してくれた事はとても大きいと思われます。

神様以外に真理を一番良く知っていたのは天使長ルーシェルでしょう。人間は堕落してしまったので神様から一番遠くに行ってしまったから分からなくなってしまいました。

神様は、まず最初に天使界を創造され、そして天使達と共に被造世界を創られました。その中には多くの天使達がいました。中でも中心的に活動したのが天使長である三天使でした。その中の天使長ルーシェルが一番神様から愛を受けていた存在でした。
僕(しもべ)ではありましたが、最も神様に近く仕えていましたので神様を良く知っていましたし、神様の息づかい、行動、香りまで全て知っていたことでしょう。

堕落論に関しても一番良く分かっていたし、その動機と経路、結果に至るまで一つ一つ全部知っていたはずです。
どういうふうにしたら人類が復帰出来るのかも知っていたに違いありません。本当に熟知していたはずです。
神様が主管してきた真理をルーシェルは隠してきました。誰も神様の元に帰れないように隠していたのです。

これまでに真理を探究した人はたくさんいます。皆さんの中にも多くいたでしょう。しかし探求してきた人はいましたが、真理を解明出来た人は、誰もいませんでした。サタンが邪魔し隠し続けてきたから解明出来なかったのです。

真理探究者はサタンと戦わないといけません。その戦いに勝利し、解明されたのが統一原理であり八大教材教本であるのです。

真のお父様が真理を解明して下さったということは、人類にとって大きな恩恵であるのです。
責任分担があるということは人類に対する一番大きな発見であり、人間には神様が主管できない責任分担があるというのは、すごい事なのです。

UTSで学んだ方の証しで、神学は難しい。何が難しいかというと学べば学ぶほど分からなくなるという事らしいです。
聖書についても、詳しく学べば学ぶほど、だんだん複雑になり分からなくなっていくのです。哲学についても同じです。

神様はアダムとエバにエデンの園のどの木からも取って食べていいが、中央の木からだけは取ってはいけないという戒めを与えられました。戒めを守って真の父母になるか、戒めを守れずエデンの園から離れていくか。
アダムとエバにかかっていました。人間の責任分担は神様も干渉できないのです。

原理講論の予定論では、神様の責任分担と人間の責任分担が勝利して成されると書いてあります。
神様95%と人間5%、どういう比率だと思いますか?
神様の比率が大きいのです。
これを、み旨成就の苦労と考えると95%神様が苦労し5%人間が苦労する事になります。
人類歴史の救済においてはそうなのかなと思いますが、私たちの信仰生活を中心として考えても、人が一つ苦労すると、神様は19倍苦労してきたという事になります。

自分は今まで苦労してきたという人がいますが、背後で神様はその19倍苦労して下さったということになります。私たちが気づこうが気づくまいが神様は19倍苦労してきた事になるのです。

人類の問題ではなく人生の問題として考えないといけません。
ユダヤ教は2000年前にも、安息日を守っていました。それでもイエス様はお構いなく毎日働いていました。
「あなたは何で安息日に働くのか?」と問われると「今日まで私の父が今日に至るまで働き続けているのにどうして休めようか?」とイエス様は答えられました。
イエス様は神様の95%の世界を良くご存じであり、神様の苦労される姿がしっかり写っていたのでしょう。

真の父母様もそうです。
ヘリコプターでの事故の時、13人を守った神様もご苦労されたのです。神様は私たちが知っている神様の苦労以上に何倍もご苦労しているのです

伝道された時の証しに「たまたま」という言葉が良く出ますが、神様から見れば「ずーと前からあなたの名を呼び続けて来たのですよ」とおっしゃるでしょう。それは人類歴史も人生路程の中でも同じなのです。

92歳になられる真のお父様は、ヨーロッパ巡回のため飛行機で現地まで19時間かかり、夜11時頃到着して2時まで訓読会をされ、そして大会をされます。休んで頂きたいが、休まれない。
2000年前のイエス様と同じように未だに苦労される神様の姿が目に写っているのです。

今年中に自叙伝1000万冊配布、祝福37万双、55万人平和大使任命する。
神様はこういう数字をいう前に、それにふさわしいもっと多くの苦労をし、準備して数字を言われので、こういう数が与えられるのです

私たちは神様の責任分担の前に謙虚になり、そしてその前に感謝しないといけません。
当たり前だと思った事が実は当たり前ではないし、あり得ないことが積み重なって当たり前になっているのです。
神様のご苦労の前に感謝しないといけません。神様のご苦労の前に苦労しないといけないのです。

私たちは神様のみ旨の為にもっと苦労させて下さいと祈り、謙遜、感謝、もっと挑戦的、意欲的に歩まないといけないのです。
私たちが知ろうが知るまいが神様は19倍苦労しています。今も真のご父母様は苦労していらっしゃいます。
私たちの5%を全う出来るように、人生の勝利者になっていく事が願われているのです。

カテゴリー:今週の説教 - 11/05/07掲載
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