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平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
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説教(5月25日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第8編 第2章 第1節 24.30.38)

24信仰生活をするにおいて、三つだけすれば、勝利は決定するようになっています。問題は、どれくらい持ちこたえられるかということです。数十年行くのか、でなければ数年行くのかということは、皆さんの努力と持久力に左右されます。

 第一に、「理念において制覇しなさい」、第二に、「精誠と忠誠において誰よりも先頭に立ちなさい」、第三に、「善の行いにおいて先頭に立ちなさい」というものです。この三つだけ実践すれば、今後の勝利は既に決定されているのと同じです。結果は持ちこたえる力と期間、そして努力によって左右されます。勝利を得るのは、皆さんの努力いかんによって、七年が五年に短縮されることもあり、一年に短縮されることもあり得るのです。

30心で祈り、すべての面で戒律を立て、天に向かって訴える祈りは成就するようになっています。今日の祈る人たちのような祈りを数十年したところで、成就しません。真の愛の心情をもって、約束する位置で祈りを捧げなければなりません。
一度祈って三十年、四十年待てる、切実な心をもたなければならないのです。三十年、四十年過ぎても忘れない、切実な思いで祈って待ってみるのです。成就するというのです。多くの祈りは必要ありません。

38統一教会自体を見ると、神様のみ旨と、先生のみ旨と、皆さんのみ旨が一致しなければなりません。まず、そのようにならなければならないのです。そのあとに方向を定め、条件物を提示しなければなりません。それが一致しなければ、いくら時が熟したとしても、み旨の成就は絶対に不可能です。祖父母、父母、自分、三代が合わさって、一つの祭物と同じ立場に立たなければなりません。宇宙史的な全体を中心として見るとき、一つになる道しかないのです。

カテゴリー:今週の説教 - 14/05/28掲載

説教(5月18日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第8編 第1章 第5節 17.19)

17私たちは、信仰生活をするにおいて、完全に自分自身を忘れ、祭物になりながらも足りなさを感じ、犠牲になりながらも足りなさを感じて、死の場においても自らを叱責することができなければなりません。このように天のみ前に何も誇らない本性の人になってこそ、永遠であられる天の復活の理想を成し遂げることができるのです。

19私たちは、悔い改めの涙で復活園を迎えなければなりません。アダムとエバが流せなかった涙を流して、抜け出さなければなりません。互いが反目し、妬ましく思いながら、「私の罪の動機は、お前のせいだ。私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちをもってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。

私が救援されることよりも、国が救援されることを願い、国のために涙しなければなりません。また、家庭が救援されることを願い、家庭のために涙することができなければならないのです。

カテゴリー:今週の説教 - 14/05/21掲載

説教(5月4日)

■題目:「死なんとするものは生き生きんとするものは死す」

■説教者:徳野英治 会長

■御言訓読:平和経(P58~P59)

「第一篇 真の平和の根本原理」

宇宙創造の原則と人間の幸福の起源

 それでは、真の夫とはどのような人でしょうか。生まれるのも妻のために生まれ、生きるのも妻のために生き、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、「夫は真の愛の主人であり、真の理想の夫であり、真の平和と幸福の主体としての夫に間違いない」とたたえざるを得ないのです。その妻の場合も同じです。この公式を大韓民国に適用してみれば、大韓民国の真の愛国者とはどのような人でしょうか。このように質問をしたならば、国のために生まれ、国のために生き、国のために困難な環境をものともせず、上は王のために、下は民のために生き、黙々と命を捧げた季舜臣将軍のような方を挙げざるを得ないのです。

 また、範囲を世界に広げ、歴史路程において、聖人の中で誰が最も偉大な聖人かと尋ねれば、私たちはこの公式を適用して、その人をすぐに探し出すことができます。その方は、誰よりも人類のために生きた人でなければなりません。ここにキリスト教を信奉しない方も参席されていると思いますが、私の知るところでは、人類のために来て、人類のために死ぬだけでなく、自分が憎んで当然の怨讐、自分の命を奪う怨讐のためにまで祈ってあげたイエス・キリストこそ、歴史上にない聖人の中の聖人と見ざるを得ないことを、この公式を通して結論づけることができるのです。このように、宇宙創造の原則と人間の幸福の起源が、ために存在するところから始まったことを、私たちは考えなければなりません。

 例をもう一つ挙げると、男性がなぜ生まれたかと尋ねてみれば、きょうここに著名な方々が大勢集まりましたが、多くの男性の方々は、「私自身のために生まれた」と考えやすいのです。自分は自分のために生まれたと、今まで考えてきたはずです。本来、男性が生まれた本意がどこにあるかというと、実は、女性のために生まれたのです。女性のために生まれたという事実は、誰も否定できません。

 相対的な立場から見ると、男性は肩幅が広く、女性は腰のほうが広くなっています。ニューヨークのような所に行ってみると、地下鉄が満員の時に窮屈な椅子に座っても、上が広い男性と下が広い女性が座れば、ぴったりと収まるのを見掛けるのです。そのようなことを見ても、互いがために生きる相対的関係を形成するためにこのように生まれたことを、私たちは否定できません。男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれました。また、その反対に、女性も女性のために生まれたのではなく、女性も男性のために生まれたのです。

 このような事実を自らが確信できないところで問題が勃発することを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として立てたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、愛と理想の世界に入ることはできないことを私は知っています。

カテゴリー:今週の説教 - 14/05/07掲載
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