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平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
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説教(6月26日)

■題目:神様の真の父母観

■説教:周藤 健 副会長

■御言訓読:神様の手紙

 「愛する真の父母へ」

 わたしは万軍の主(ヤハウェ)である。わたしは万軍の主である。わたしは万軍の主である。わたしの愛する息子よ。わたしの愛する息子よ。わたしの愛する息子よ。

 わたし、万軍の主は、真の父母を愛している。この上なく愛している。この上なく大切である。何をもって感謝と慰労の言葉を息子に伝えることができようか。

 愛しているという言葉よりも、もっと良い言葉があれば、その言葉を借りたいが思い浮かばない。真の父母は、わたしの心の中の深いところに根付いているが、その愛は表現できない。

 真の父母は、今すべてのことに勝利し、すべてのことを軌道に乗せたがゆえに、その立場は、まさしく人類の救世主であり、メシヤであり、王の立場ではないだろうか。

 12月25日、キリスト教とその他の教団が決意文を採択し、真の父母に侍っていくことを満場一致で決議して宣布したので、真の父母は、人類の真の父母の位置につくのがふさわしく、そのみ旨を成すことを万軍の主は願う、願う。

 もちろん、多くの世人たちは理解できないかもしれないが、内的立場は立てなければならないがゆえに、万軍の主は、真の父母を王の位置に推戴(すいたい)する。

 そのあらゆる獄苦の立場、受難の立場を、万軍の主に代わってすべて払ってくれたので、万軍の主の心情は、感謝と、感激と、興奮とありがたさに満ち、これからは、真の父母にすべてのものを譲り渡してあげたい、すべてのものを相続してあげたい。

 わたしの愛する真の父母。神様は、多くの哀訴の日々を送ったが、長い間この機会を迎えることができなかった。今、万軍の主の心情をくみ取ってくれた。それゆえ、この大切で貴重な時間にわたしが愛する真の父母に、感謝の心を伝えようと思う次第である。

 真の父母、わたしの愛する真の父母。わたしの懐の中に抱いて、抱き締めて、離したくない真の父母。二本の足で歩くことがもったいない。夜通し抱き締めて、心のすべてを打ち明けたい。

 万軍の主は信じる、真の父母を信じる。その間の胸痛む事情、経験した苦難と辛さを主は知っている、記憶している、すべて見てきたのである。

 全てのことが神様の責任であることを真の父母が耐え忍び、勝利の基準を立てたのだから、どうして万軍の主が真の父母を忘れることができようか。ありがとう。感謝している。本当に御苦労だった。わたしの愛する真の父母、万歳、人類の救世主、万歳、万王の王、真の父母、万歳。

 万軍の主が、わたしの愛する真の父母に切実に伝える。

■説教内容

今日のテーマは「神様の真の父母観」神様はメシアをどう見ているか、易しく言うと、神様のメシア観です。皆様もそれぞれのメシア観を持っておられると思いますが、神様は一体どういうメシア観を持っておられるのでしょうかという話です。皆様は関心ありますか?

さて聖書によれば、創世記の第1章27節に神様はその形のごとくに人を作られ、そして男と女に作られたとあります。ご存知ですか?

人間を神様の似姿に作られた。ここにあるのは堕落した人間ではなく、本然の人間なんです。最初のアダムに罪がありましたか?罪がないから清いでしょう。ならば清い神様の鏡ではないでしょうか。そうして生まれたのがアダムです。ならば第3のアダムも一点の汚れのない神様の息子として、神様を映し出す鏡としてこられた、生まれながら無原罪の存在として、たった一人の方です。神様は3人のアダムを送られました。第1は消え、第2は十字架、そして3番目と神様はたった3人の清いアダムを送られました。

皆さん。自分の顔を見る事が出来ますか?どんなに頑張っても自分の顔を見る事は出来ません。これは大変な真理です。どうするのですか?鏡でしょう。だから神様はアダムを作られました。その鏡は一点の穢れも、ない鏡です。それを見た人はどう言ったでしょうか?

清い鏡、汚れやひずみのない鏡、それに一体誰が映っていますか?自分でしょう?そういう風に見つめてみれば、この鏡に対して私たちの社会はどのように言ってきたかというと、結局その鏡が清い鏡であるからこそ、そこに映し出されているのが自分であることに気づかない、自分の姿に気づかない。だから鏡の中にいる奴が悪いと言ってきたのです。鏡が悪いと。

イエス様が来られた時もそうでした。偽キリスト、神を冒涜するものと言って、鏡をたたき割ってきました。どうなったかというと結局十字架に付けられました。何の解決にもなりません。そして新しいより大きな鏡が来た時、そこに映る姿は、やはり自分の姿です。

この拉致監禁問題、反牧の牧師、その他、お父様を否定する人、迫害してきた人、結局それは全部自分の姿なのです。これを解決するには自分が変わらなければ、鏡は変わらない。解決しません。これが難しいんです。

考えてみてください。神様は反牧の人、拉致監禁の人、教会を抹殺しようとしている人、神様はこの鏡を見てどのように感じていらっしゃるのか。神様のメシア観とは何か。神様のメシア観が最も正しく間違わない、メシア観ではないですか?私たちは信仰を持っているとはいえ、ズレています。これを修正しなければ、何十年信仰を持っていてもだめです。

基準となる神様の持っているメシア観とはどういうものでしょうか。私たちが神様から離れていればいるほど、私たちの持っているメシア観は狂っています。神様の前に映し出されたメシアの姿はまさに神様の姿、そのものです。清くて、心情にあふれた、その心情と言うのは愛したくて、愛したくてしょうがないという衝動が心情。

しかし、愛したくても対象がいなければ、愛することができない。その神様の対象として映し出すのがアダムとエバです。そのアダムが本当に究極的に神様の喜びとなるためには責任分担を果たさなければならない。それを完璧に果たしてこそ初めて神様の喜びの対象となれるのです。

その責任分担というのが、「取って食べてはいけない」ということなのです。しかし、取って食べてはいけない、というそれだけではいけません。それだけでは人間は完成しません。愛が完成しなければならない。三大祝福、あるいは四代心情圏といってもいいですが、愛の完成がなされなくてはなりません。神様を愛し、夫婦を愛し、兄弟を愛し、子供を愛し、その愛を、それを生活圏内になしとげてこそ、初めて人間が完成します。   

神様が願っていらっしゃるのは、神様は対象の中に住んでみたいということ。アダムと一つになって、アダムと住んで共同生活圏を成して、アダムが感じる時、神様の無形の五感が共鳴する。このようにして、一緒に生活する、例えば美しい花を見て「ああ、きれいだなあ」と思う時、その花の香りをかいで「ああ、いい香りだなあ」と感じる時、人間の五感と神様の無形の五感が共鳴現象を起こし、五感の喜びが、神様の五感の喜びとなる。

そのようにして神様も経験的に完成していく。そうであれば神様は人間なくして経験することができなかったのです。清い人間の五感の喜びが神様の五感の喜びとなった。そのように人間が幸せにならなければ神様も幸せがないんだということです

神様が喜び、幸せだったときがあったでしょうか?実際神様は、そのような幸せな時は、本当に体験したことがあった神様だったでしょうか?なかったのです。アダムとエバが幼い時にはあったかもしれません。アダムとエバが自然の中で戯れているとき一緒に戯れている喜びはありました。しかし神様の初愛はあったでしょうか?アダムとエバの結婚式が神様の結婚式のはずでした。神様もともにそのような愛を経験して喜びに満ちあふれるそのような経験は一度もありませんでした。

その神様の夢と願いを奪っていったのは誰でしょうか。それがルーシェルである。清いエバの愛を奪っていったのがルーシェルでした。それを守るのが責任でした。サタンとなったルーシェルに連れて行かれるエバの救いを求める叫び声を聞きながらもどうすることもできなかった神様である。神様は人間の責任分担に干渉することができないということは皆さんご存知ですか?

もしそうであるのならば、子供たちが地獄で泣き叫ぶ声を聞きながらもどうすることもできなかった神様である。百年、万年、経っても、どうすることもできない、人間が責任を果たすまでどうする事も出来ない。一体誰が責任を果たすことができるのか?誰でもできるのではない。一人のアダムが罪を犯したのだから、その罪を清算して、責任を果たしてくれる方でなくてはならない。その方は罪無き方でなくてはならない。

その方が来てくれるまではその罪を清算できない。その方が現れるまでは誰一人として、この問題を解決することができなかった。この方がメシアである。例えば、ユダヤ人が、アウシュビッツのガス室で、殺される時、あまりの苦しさに、前の人の背中を爪で深く切り裂いて、死んでいった。「神様、あなたを四千年侍ってきたのにどうして助けて下さらなかったのですか?」と神様を呪ったその時も、神様はどうすることもできなかった。こういう神様を牢獄の神様、囹圄(れいご)の神様と言います。

劉会長の本体論の講義の中に、神様は岩の中に閉じ込められている神様であり、その方が自分の親であった。その神様を岩の中から岩を手でこじ開けて神様を連れだしてあげたいのがお父様の思いだというお話がありました。

このような神様を一体誰が理解することができたでしょうか。誰も神様のことを理解することができませんでした。神様の事情が分かる人がいなかった。何故?原理が解らなかったから。お父様が原理を解明され、原理が分かればわかるほど、神様の事情が解ってきた。

人間が責任分担を果たさない限りどうすることもできないということ。お父様はこれが分かった時、神様を抱きしめて泣かれ、その洋服も、祈祷室の畳もお父様の涙でびっしょりと濡れていました。顔の形が崩れるほどでありました。自分はどうなってもいい、たとえ誹謗、中傷、罵倒を浴びせられても、化石のようになって身動きの取れない神様をその岩を引き裂いてその中から何とか神様を解放したいと思われた。

そしてそれをついに成し遂げられたのは、2001年1月13日神様を天の宝座に就かせて差し上げたけれども、それはまだ、出発点に過ぎませんでした。神様を本当に解放して差し上げる出発点でした。それをついに完成するのは人間を通じてなので、お父様が完成されてからであります。

お父様お一人では完成することは出来ません。お父様は無原罪で来られました。そのようなメシアを送ることができたのは神様の勝利でありお父様の勝利は、お母さまを生み出して完成させるまで、新婦の完成、創造、この路程と合わせて子女、家庭の完成を成した。それを全部完成された、その主管圏を天宙にまで拡大された。

その出発点は、2010年7月8日「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」の時です。神様が解放されました。その出発点が決定されました。これからは反対するものは皆崩れていきます。そう言う時代がやって来ました。これを出発点としてすべての人類が神様の元に帰ってくることができる事が決まりました。そして始まりました。これから反対するものは皆崩れていきます。私たちが責任を果たす分だけ、やればやるだけ崩れていきます。崩れ始めたら早いです。最後を乗り越えたら、その先は見えている。神様はその向こうを良く知っていらっしゃいます。これを見ていらっしゃいます。

神様をここまで地獄の中から解放されたメシアのことを神様はどう見ておられるのでしょうか。神様の真の父母観はそこには「ありがとう」しかない。抱きしめて涙ながらに抱きしめて、こういう観点です。

平和神経のなかに「真の父母、私の愛する真の父母!私の胸の中に抱いて、抱き締めて、離したくない真の父母!二本の足で歩くことがもったいない!夜通し抱きしめて、心のすべてを打ち明けたい!夜通し抱き締めて、こころのすべてを打ち明けたい!」

もちろん現実は、韓半島統一あるいは日本の使命、様々問題はありますが、その根底には、父母様を抱きしめて、ありがとう、ありがとう、ありがとう、長い間、閉じ込められていた所から解放してくれ、全人類をその内に抱いて抱きしめてみる事が出来るその時を今、作ってくれた。たった一人の息子よ。そのことにありがとうと言いたい。

そういう風にわかってみると、私たちのメシア観と差がありますか?その差が私たちの課題なのです。神様の視点を私たちがどのように相続していくかということができるかということを話したい。皆さん祝福を受けておられますか。妻と呼ばれるためには主人がいないと妻にはなれない。誰のおかげで妻になっていますか。

そういう風に見つめ始めたら、夫観が変わってしまうのです。妻に対しても子供に対しても変わってくるのです。この対象なしにはその愛を出発できないのです。愛という問題をどう生活の中で生活化していくかというのです。お父様の生涯路程、主流属性、絶対、唯一、永遠、不変、創造性、関係性、統一性、これから深く学ぶようになっていくと思いますが、自体自覚、他体自覚など深い内容になっていく、そこに私たちの生活圏を大転換させる秘訣がでてくる。

夫がいるから妻であることができる。子供がいるから親であるという感謝があり、そこから愛が出発していく。愛とは、その人の人生を勝利させてあげたい、完成させてやりたい。その子の人生を完成させてやりたいということです。そのためには愛を投入するしかありません。それは何ですか。それは自分の対象者の存在目的を達成させてあげる事。愛を投入して、4つの愛を勝利させてあげる事。

夫にとっては、子女の愛とは何でしょう、夫の親とは真の父母様であり、その真の父母様をどれだけ慕っていますか。信仰生活はどうでしょう。それに問題があれば投入してあげなければならない。そのために、真心を尽くして、尽くして、尽くしていかなければならない。

自分を忘れて投入する。愛を勝利させてあげなければならない。夫がアベルカインで悩んでいたらそれを解くために真心を尽くしてあげていますか?夫婦の愛で、悩んでいたら、夫を男として本当に幸せにしてあげる。そういうこと一つを考えてみても、生活圏が相当変わる。父としてはどうでしょうか。子供との関係が難しければ、どうしてあげたらいいでしょうか。

本当に現実的なのです。そういう風に見つめる神様が願った姿そういう夫、妻、親、息子、孫、にしてあげる。神様の見つめる見つめ方で見つめながら、神様が本当に喜ぶ対象者にしてあげる。神様の願う姿にしてあげるそれが愛。アベルカインもカインがいるからアベルの立場に立てる。本当に感謝。そのように祈っていったら変わっていきます。愛は自分から出発するのではなく、相手がいてくれて出発することができる。感謝でいっぱいになってくる、そういう体験を少ししなければと思います。

真の愛の属性 p224から

そうであるならば、真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたという事実すら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です。

真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。堕落の末裔である人間が作った国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が真の愛の価値です。

神様の絶対的真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠、のものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践するとき、神様と同居してともに楽しむことができ、同参権、相続権までも享受するようになるのです。

このように、天国に入る絶対必要条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生です。

カテゴリー:今週の説教 - 11/06/28掲載

説教(6月19日)

■題目:天の基盤が必要

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:天聖経(真の神様の祖国光復より)

もしも、地上で国家を復帰するという事を自分の生涯で果たせない場合、皆さんは霊界に行っても天国に属する人としての価値を持つ事は出来ません。地上で神様の主管圏内で統治されたという実績をもって、霊界に行かなければなりません。それが本来の創造基準なのです。

神様は愛する息子、娘を地上に送り、絶対的な一つの国家を建てる為のみ旨を進行させてきましたが、現時点では一つの国家を復帰し得る土台は築かれていません。いつも失敗してきたので、この地上に天の人を遣わし、それを治めさせ、推進させ、成就させる為に苦労してきたのが、今までの天の歴史なのです。

国があって初めて私達の千秋万代の子孫の前に、大切に残してあげる事のできる伝統も残るのです。私達が血の汗を流した全ての努力も残るのです。天の労苦を讃える記念塔がこの地上に生じるのであり、全ての栄光の形跡がこの地上に残るのであって、国がなければ全て無駄なものになるのです。

今日、世界のキリスト教にとって残された十字架や全ての涙も、天の求める国がないとするならば、全て川に流さなければならないのであり、燃やしてしまわなければなりません。サタンの籠絡に倒れて行くという事を知らなければなりません。それ故国が問題だという事を皆さんは知らなければなりません。

■説教内容

物事はどういう関係から見るかによって、だいぶ物事の見え方が違ってくると感じています。
例えば人類の歴史をどう見るかということについては、共産主義は「階級闘争歴史である」と言っています。富んだ者が貧しい者を支配する歴史であって、貧しい者が富んだ者に闘いを挑みながら展開されてきたのが今日までの歴史であると考えています。
私達は「善悪闘争歴史である」と考えています。神様を中心とした善と、サタンを中心とした悪の闘いの歴史というふうに考えます。

アダム家庭においては、アベルは善の表示体とされていますし、カインは悪の表示体とされています。アベルとカインは善悪の闘争と言えます。この闘いにおいてどちらが勝利したかというと、皆さんご存知のようにカインが勝利をおさめました。

カインがアベルを殺したとありますから、アダム家庭においてはサタン側、悪側の勝利に終わったという事です。従ってそのままでは終わるわけにはいかないので、神様はノア家庭を導きましたけど、ノア家庭も残念ながら勝利出来ませんでした。

そしてさらにアブラハム家庭を導きだしますが、アブラハム・イサク・ヤコブの三代にわたって、結局善の表示体であるヤコブが、悪の表示体であるエサウとの闘いにおいて勝利して、家庭的なレベルでの善悪闘争歴史は神側が勝利をおさめるという事になりました。

さらに氏族的レベル、民族的レベル、国家的レベルといろんな段階における善悪闘争が今日に至るまで展開されてきたというふうに私達は考えています。従ってこのような私達の歴史観は重要であります。

共産主義の学生達は「犬が吠えても歴史は進むんだ」と言って、最後はプロレタリアとの共産世界ができてそれで歴史は終結するんだという信念を持って活動していました。私達も今日、善悪闘争歴史で展開されてきた歴史が今最終的な決着をつけなければいけない時を迎えたという事を理解しています。

最終的決着というのは100年200年かかるのではなく、2013年1月13日までのあと1年と数ヶ月間の中で最終的決着をつけられなければならないのです。どういう形で現れるかというと、天一国という具体的な神の国が建国されてその歴史に決着がつけられると語られています。

従って今私達は人類歴史の6000年にわたって展開されてきた善悪闘争歴史の最後の闘いの時に、神側の天の勇士として、神側の天の烈女として、神様からすればとても頼もしい、頼りとせざるを得ない天の勇士烈女として今この場に立っているという事を理解する事が出来ます。歴史のみならず物事の考え方も私達の信仰生活を考えた時にも、善悪の分別は大変重要だという事です。善悪を分別しないと神様の摂理は始まらないのです。アダム家庭においてもアダムは善悪が混在する立場でしたので、神様はこのアダムから摂理を進める事は出来ませんでした。

このアダムを真二つに切った形で善の表示体であるアベルと悪の表示体であるカイン、この善悪を分けたところから神様の摂理が出発しました。従って私達の信仰生活においても、私がもし善悪の母体であるなら、神様は私を通して摂理する事が出来ません。本当に私達が神様に用いられるように、よく善悪を分別しながら進んでいかなければならないという事になります。なかなか難しい事です。

例えば生活面について言えば、自分の生活環境をしっかりと整理するという事が必要です。最近売れている本に「物を捨てる事によってあなたの人生は変わる」といのがあるそうです。
ある教会長は、トイレをきれいにするとお金がまわるようになるという主張をされていました。清平では大母様が「経済の問題がある人は胃腸を役事しなさい」と言われます。その胃腸を通過した食物の行き着く場ですから、そこを掃除すると財がまわるというのも利に適ったことかなと思います。物を整理する、物を捨てる事によって生活環境が変わっていくという事もあると思います。

物事の整理は、信仰生活における分別という事においては大事なのだろうと思います。新しい教会を担当する時は、教会の掃除からまず始めました。外的環境を整えていきます。物が増えると霊的雰囲気が落ちてきて、混沌としてくる事があるように思います。

霊的環境も大切であります。ある韓日家庭の証しで、ご主人が油断すると霊が体に入ってしまうそうです。しかし善霊堂が家にきてから絶対善霊が悪霊を捕まえて窓の外に放り投げていたそうです。霊的環境が整えられているのです。絶対善霊がどれ程、子孫である私達を導きたい事でしょうか。

守ってあげたくて家を訪ねてきても、恨霊が主観していて容易には近づけないという事です。絶対善霊も御父母樣のお写真の後ろで小さくなって夜を過ごすそうです。私達が気付かなくても背後で霊的闘いがなされているという事を知る事が出来ます。私の環境が、神様の働ける環境であるのか、絶対善霊が協助できる環境であるのか、地上的要素から考えてみても、霊的要素から考えてみても、環境整備は信仰生活において重要ではないかと思います。

最終的決着は神の国をこの地上に建てることによって完結するのであります。もしこの地上において神の実態的な祖国、天一国を創建しなければ私達は堂々と天国に入って行く事は出来ないとお父様はおっしゃっています。天一国を創建するという事は私達にとっても一大事でありますし、一番深刻に考えていらっしゃるのが真の御父母樣です。

これ以上延長できない2013年1月13日に向けてどれ程深刻な立場でみ旨を進めていらっしゃるのかという事です。天一国はどのようにつくられるのか、具体的な話では、天一国がつくられるためには、その一国の国民の半数以上が天を受け入れれば可能でしょう。

民主主義の世界は多数決で物事が決定されます。最終的には数で決定されるという事です。ある国で半数以上が食口となったならば、その国は間違いなく天一国であると言えます。

反対に言えば、少なくとも民主主義国家であれば半数が食口、または食口に賛同する人でなかったならば天一国ではないという事です。そういう基準で見てみた時に、いかに神様の祖国であり神の故郷である韓国において、その相対圏に立つ日本において、子女国家の代表である米国において、そこまで天の基盤を築く事が出来るのか、これが今この闘いの勝敗を決していく1つの基準であるという事になります。

そういう基盤をつくらなければいけない立場に立っているという事を自覚しなければなりません。天一国創建といくら叫んでも、祈っても、それだけで天一国が実現できるわけではありません。天一国実現は具体的であり、天の基盤をいかにつくっていくか、世界に拡大していくか、本当に天一国に相応しい国をたてていけるのかが、今の私達の最大の摂理的な課題であります。今日まで残念ながら天はその基盤をつくる事が出来ず、ご苦労されてきました。

「イエス様の生涯と愛」という本を読んでイエス様の路程がどれ程難しかったかという事を改めて認識しました。本来なら全員が歓迎してお迎えしなければならなかったのがメシヤでした。2000年の時を経てキリスト教は世界に拡大していきました。クリスチャンは世界65億の中の20億人と言われています。

日本はクリスチャンでなくてもクリスマスイブはイエス様のご生誕をお祝いします。本来はイエス様がお生まれになった時に、少なくてもイスラエル民族全体が大歓迎しなければなりませんでした。しかし歴史の現実は誰も歓迎しませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれたのは神様の配慮であるとお父様は語られています。

マリアは生まれる前に神様に「この場では生むことが出来ません。私を他の所に連れて行ってそこで生ませて下さい。」と祈ったと書かれています。そして神様はマリアの切なる心情がわかったので、マリアに対して配慮してあげたのです。それで生活していた環境圏を離れてベツレヘムで生まれるようになったのです。

3年間エジプトへ行きそれから帰ってきました。待ちに待ったメシヤなのに、天の家庭基盤もなく、天の氏族基盤もなく、民族基盤もなく、全てサタンに奪われてしまって、イエス様がこの地上に天国を築こうとした時に家庭が障害となり、氏族が障害となり、民族が障害となり、国家が障害となり、世界が障害となり、ありとあらゆる事が難しかったのです。イエス様はどれ程多くの涙を流したかわかりません。

神様が満を持して送られたメシヤであったにもかかわらず、そのメシヤを守るべき基盤がなかったので、イエス様自ら12弟子を復帰して基台を立てましたが、結局12弟子はイエス様が十字架にいかれる時基台となる事は出来ませんでした。

天の基台を立てるという事がどれ程難しい事でしょうか。かつてのユダヤ教のようにキリスト教は摂理的使命を果たす事が出来ませんでした。それで真のお父様は興南の地へ行かれました。再臨主は生きてみ旨をなさなければならなかったので、興南で12弟子を復帰されました。命がけの伝道だったのです。どれ程壮絶な闘いだったでしょうか。

しかし国、世界を復帰していくためには、もっと大きな基盤が必要なのです。そのため召命を受けて選ばれて立たされている私達なのです。いよいよ今日たるまでの路程が、最終的決着をつける時が来ました。それが何かというと、国をたてる事ができるかどうか、今こそ奮起して天の基盤をつくるために伝道で頑張っていかないといけないという時であると思います。

自叙伝配布430冊勝利された方の証しの再現ドラマを見ました。まさに天の勇士烈女そのものだと思いました。実態的に私の天の基盤がないといけないと思います。10月に祝福があると思いますが、ぜひ祝福前に3人の霊の子女を復帰して下さい。天の家庭として守り続けていくために最低3人(ルーシェル、ミカエル、ガブリエル)たてなければなりません。

基盤なくして私達は立つことが出来ません。基盤をつくるという事は私達にとっても、私の家庭にとっても切実な深刻な死活問題であります。もし家族に反対されているなら、その家族の中で天を受け入れていく基盤を如何に築いていくか、同じように氏族や職場で如何に天の基盤を築いていくかが重要であります。

全てにおいて天の基盤をつくっていかなければなりません。具体的に考えて実行していかなければならないのが今この時であります。もう時を失う事は出来ません。天一国創建は私を中心として、私達の家庭を中心として天の基盤を如何に築いていくかを真剣に取り組んでいかなければなりません。

闘いは勝つか負けるかであり、数的基盤のある方が強いのです。今までと今が違うのは、摂理的にもう時がなくなってきたという事であります。早く天の基盤を築いて、お父様をこの日本に入国して頂き、天一国日本が神の願いの如くに歩み行くように努力していかなければならないのです。

まだ私達は小さな群れですが、大きな群れとなってこの国を動かす事が出来るようになっていかなければなりません。来週礼拝に参加する時、天の基盤が広がっているのか狭まっているのか、サタンと闘って天の基盤を拡大していく私達でなければなりません。

全員が力をあわせて頑張っていきたいと思います。国がなければ私達は天国へ入る事が出きません。国を復帰して御父母様の前にお捧げしなければ、御父母樣が神様の前に立つ面目を失ってしまいます。国を復帰して御父母樣と神様に喜びをおかえしできるような私達となりたいと思います。

カテゴリー:今週の説教 - 11/06/20掲載

説教(6月12日)

■題目:天一国創建は私達の召命的責任である

■説教:和田康伸 教区長

■御言訓読:マタイによる福音書(第6章25節~34節)

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

■説教内容

先日、先輩家庭の中で、70歳(古希)のお祝いがありました。
草創期の教会の歴史は苦労が多く、その先輩方の苦労があってこそ今日の教会があります。本当に感射致します。

その先輩が、お祝いの会場でスピーチされた内容は、御自身が危篤状態になり、一旦霊界に行かれた時のお話しでした。霊界では、本当に草創期の大先輩の方々とお話されたそうです。その中で聞いた内容は、事を成すのには3つの内容が必要だということだそうです。

「天運・人運・地運」の3つがあってこそ事が成されるのだそうです。我々には真の御父母様の勝利によって天運はものすごくあるけれども、人運と地運が非常に乏しくて、事が成されない状態だということです。それゆえにもっと頑張って来ないといけないからと、霊界から追い帰されてまた地上界で活躍していますと話しておられました。

私達は、一人一人が尊い使命を持って歩んでいます。歩む中で恵みもあれば、試練もあります。私も教会に導かれた当初3年間は、試練の時に、「なぜこの道に導かれたのだろうか、私以上にこの道にもっとふさわしい人が居るではないか。」と思い悩んでいました。

その当時の私は一生懸命歩んでもなかなか実りがありませんでした。その状況から見て、私には先祖の功労にも恵まれていたほうではなかったと思います。そして人間的に見ても優れていなかったのだと思います。それゆえに私よりあの人のほうが、もっとこの道にふさわしいとよく思ったものです。

摂理の中心人物として導かれる為の条件には5つあるのですが、その内容は

1.選民であること(クリスチャンであること)
2.選民の中でも祖先の功績に恵まれた者であること。
3.神様のみ旨を成すのに必要な天稟を備えていること。
4.天稟を備えている者の中でも後天的条件を備えているもの。
5.更に時期と場所が合致していること。
 
皆さんどうでしょうか?適しているでしょうか?
私の場合は5番目だけは誇れますが、選民(クリスチャン)であってこそ誇れる内容なのであって、私には当てはまっていませんでした。
 
それでも人々に先駆けて導かれたのだということを入教当初考えていました。
入教して3年が過ぎたころ、泣けて、泣けて、仕方がないという期間が1週間くらい続きました。その時に、神様のより深い愛を感じるようになったのです。
 
私には先祖の功労もない、天稟もない。それでも神様は私を尋ねてくださいました。
なぜ尋ねてくださったのでしょうか?

今の私達は神様から見て、本然の姿ではないし、誇れる歩みもない立場ではありますが、それでも神様は「あなたは私の息子であり娘である。」と信じてやまみませんでした。神様が私達を息子、娘であると見ていてくださったことが、我々を尋ねてくださった根拠なのです。

一人一人が大きな使命を持っているわけではなくても、今、召命的責任を持っている一人一人であると認識する必要があります。私達の教会では今、再臨主が生きて歩んでおられます。み旨の道においては神様の責任分担95%と人間の責任分担5%が合わさって完成して100%になります。

神様は全知全能ですからその責任分担の95%が欠けることはありません。問題は人間の責任分担なのです。人間の責任分担が仮に5%から欠けて4%にしか達しない場合には、その数の合計は数学的には99%なのですが、み旨の道においては99%ではなく、0%と言うことになってしまいます。
 
み旨の道においては100か0かどちらかしかないと理解する必要があるのです。
お父様は、2013年1月13日から1日たりとも延長すれば千年の悲惨な歴史が展開されることになるとおっしゃいました。
 
ノアの時もハムが恥ずかしがって神が離れてしまいました。今日に於いても同じ認識を持って歩まねばなりません。5%は私達が自らの責任において走っていかなければなりません。あと六百数十日しか残っていません。今のペースで天一国創建までいけるでしょうか?

天一国創建のみ旨に対して、神様、真の御父母様と共同責任を負っているのであり、落ち着いている場合ではないのだということなのです。

今こそ神の国と義を築く時です。夫婦、親子が、神の国と神の義の為に共に涙を流す家庭でなくてはなりません。我々の家庭のみ理想家庭を築いたとしても、社会全体がそのようでなければなりません。どんなに力も無く、功労も無い私達一人一人であったとしても天のみ旨を進めていく責任があります。

御父母様から「あなたは私の勝利権を相続したのか?」と問われている姿をイメージして祈ってみてください。天一国創建は私にとって召命的責任であることを自覚して1週間を出発していきましょう。

カテゴリー:今週の説教 - 11/06/15掲載

第29回全日本昇華祝祭(6月5日)

■第29回全日本昇華祝祭

■特別メッセージ:宋 榮錫 総会長

■内容

霊肉界におられる祝福家庭
食口の皆さんおはようございます。
私たち全員み旨のために献身的な生涯をおくり昇華昇天された先輩家庭たちの貴い人生と共に東日本大震災の犠牲者とこの瞬間も天一国創建を目前にして昼夜不撤で孤軍奮闘する祝福家庭と食口の皆様に感謝と敬意を表して1分間の黙祷の時間を持ちましょう。

私たち日本は第2次世界大戦後に神様(天地人真の父母様)からエバ国家に選ばれ特別な蕩減復帰の摂理路程にその責任遂行のため、血は天のために涙は人類のために汗は地のため特別な絶対信仰の道をかけてきました。
天の特別摂理を知ったサタンは日本国にすべて集結したのですが、日本の統一教会がサタンのこの世界での活躍を無力化させ統一教の行く道を総力を尽くして、神様が分からない知識人や無神論的な世界観を持った人々の中に入り彼らを先に立たせて攻撃を受けてきたのが統一教の50年の歴史でした。

純粋な統一教を揺さぶり生きることができないように振る舞ってきました。世論に影響を受けた多くの人たちが統一教がどのような所なのか調べずに無条件に反対して対話も拒否したまま統一教の人々をまるで化け物のように扱いました。拉致監禁が4300名と言われていますが、実際はもっと多い1~2万名以上でしょう。
その影響で統一教をやめた人々により天文学的な数字の被害を受けました。

それは神様が生きていらっしゃるという印です。本来、宇宙の創造は神様(創造主)であり人間はその神様を父母として侍り、平和理想世界として神様を讃揚賛美しながら生きるべき人間でしたが、堕落で神様にそっぽを向いて逃げた血統として生まれた人間になりました。

その後の人類は悪魔(サタン)の血統を受けてサタン悪魔と対をなして自分勝手に生きてきた人類歴史でした。
堕落で一瞬に吹き飛び、孤独、苦痛、苦難の流離弧客の立場になり、人類歴史は貧乏と疾病と戦争と恐怖と戦慄に揺れる悲しい罪悪歴史が綿々として流れる中で神様は創造本性を持つ人間の本心を刺激して宗教の摂理を進行しました。

宗教と言う文字を解釈すれば根本的に孝の父を尋ねていくことです。
それで宗教の窮極的な目的地(終着駅)は神様、お父さんすなわち真の父母を尋ねていく人類歴史なのです。
神様は数千数万年の歴史を通じて真の父母を探し求める摂理であり、サタンはそれを阻む歴史です。人類歴史は善悪闘争の歴史なのです。

太初に人間始祖アダム・エバが神様のみ言に従い、善悪の実を食べなければ神様と一体となり真の父母になり神様を人類の真の父母になるようにして天地を全体、全般、全権、全能の神様に直接主管されたはずでしたが、そのようになることが出来ずに人間をサタンに奪われた以後、それを捜し出すために第2アダムのイエスを捜し立てたけれども、彼はお父様の名前だけ挙論して十字架に帰るようになりました。

その後2000年ぶりにこの地上に3番目のアダム・再臨主を送られましたが、その所がまさに天孫民族(神様の運命と一緒)である韓国に再臨主を送られ、その方がまさに文鮮明先生なのです。
その方が七転八起の苦難の道を勝利し天地人真の父母定着実体となられて神様をついに解放されて(恨を解いて差し上げた:解放釈放)初めて人類の真の父母として今までの罪悪歴史を審判する宣言文を通じてサタン・悪魔は神様の家から永遠に追放される役事が起きました。

それが2010年7月8日韓国で11月22日ワシントンとニューヨークで11月27日フーバーダム・ラスベガスで12月4日にソウル韓国で宣布式を成し、ついにサタン・悪魔は死刑宣告を受けて神様の家(天宙)の外に追い出される立場(底なしの地獄)になったのです。

この審判期間が2013年1月13日まで審判と災いが天地を覆う中で新天新地、神様の太初からの創造本然の理想世界が到来するのです。
それで2013年1月13日の起源節(開天節)は1000年をアップグレードして3013年1月13日になります。この日の宣言文がでるまで日本国家は50年余りの間、堕落したエバの蕩減復帰の道、悲しい迫害の路程を歩きながらも人類救援65億の世界摂理において日本だけ世界194ヶ国に宣教師を派遣して人類救援のため全力投球し日本はエバ国家から母国に厳しい苦難を顧みずにこの日を迎えたのですからサタンがどれだけ悔しかったでしょうか。

2010年の金婚式、戴冠式、天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会の後に追放されるサタンの最後の悪あがきが日本の大震災の災難でした。しかし、サタンがいくらそうしたとしてももう幕を閉じます。

今日の私たち日本は勢いよく母国の使命を忠実に遂行して日本を永遠なる復帰された女王の国に行かなければなりません。なすべきことが多いのです。
今までより迅速に世界救援の先頭に立つべきなのです。これが今日の日本の行く道です。

皆さんの責任が重要であることを確認して6月からは探素でない結実を得る道を行くことだけが日本を光り輝くようにする道です。死生決断、全力投球の忠誠だけが、日本が永遠に残る道であることを肝に銘じて下さい。

ありがとうございました。

カテゴリー:今週の説教 - 11/06/14掲載
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