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平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝
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説教(3月23日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第3編 第3章 第2節 29.2.6)

29私たちは、サタンと闘って勝たなければなりません。勝てない人は、天に帰っていくことができません。勝とうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。堕落したアダムが問題です。アダムができなかったこと、それ以上のことをしなければなりません。アダムは、神様を絶対的に信じることができませんでした。

ですから、アダム以上の人になろうとすれば、神様のみ言を絶対に信じなければなりません。アダムは、神様のみ言を中心として実践できませんでした。これが堕落です。神様を信じることができず、次に実践できませんでした。実践したあとには、神様の愛が連結されます。本来、堕落していない人間が行かなければならない道は、神様のみ言を信じて実践して越えることです。そうしていたならば、神様の愛が待っているのです。神様の祝福が待っているのです。

2愛の道は、あちらこちらに行ったりはしません。一つの道しかありません。愛の道は、二つの道ですか、一つの道ですか。一つの道です。一つの道だけを行くようになれば、これが通じないところはありません。愛の道は、貞淑な道であり、静かな道であり、司祭が祭事を捧げる瞬間がそうであるように慎重な道です。

6愛の道は、自分のために生きることではなく、自分を犠牲にすることです。愛する人の一言を聞けば、十年の苦労も克服できるのです。それは驚くべきことです。愛する夫や愛する妻と約束した一言を中心として、十年どころか一生の間も苦労できるのです。

そして、その克服すべきすべての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であれば悲惨であるほど、約束した内容の愛は、より高い次元の立体的価値をもつようになるのです。

カテゴリー:今週の説教 - 14/03/25掲載

説教(3月9日)

■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経(第9編 第2章 第1節 1.2.10.36)

1私たちは、還故郷して真の故郷に帰っていかなければなりませんが、故郷とはどこでしょうか。真の故郷は、愛のある所です。故郷は、「私」の動脈の血が歴史と共に動く所です。
私が成長するとき、その地方のすべての要素を吸収して大きくなったからです。私の細胞と共に、血と共に、心臓の鼓動と共に躍動する所です。愛の感情を抜き去ることのできない、深い内容が隠れている所が故郷です。故郷に行けば、誰を訪ねていくのでしょうか。故郷を訪ねるときは、父母の懐が慕わしくて訪ねていくのです。

2還故郷するためには、生命、愛、血統の三つの条件があります。これを実践するためには、命を懸けなければなりません。先生は、生命を懸けて数多くの峠を越えてきました。命を懸けて行うことに、新しい国の夜明けを告げる東方の朝の光が照らすのです。その国を照らす陽の光も神様の愛であり、それは千秋万代に続く伝統の光り輝く太陽となるのです。永遠に変わらない天の血統を受け継ぎ、その陽の光を受けてこそ、永遠に侍ることができるというのです。
 それは、人類の生命の本体である神様を象徴し、父母様を象徴するのです。父母様の伝統と天の復帰摂理の伝統を継承して生命と交換し、その交換したものが、世の中のいかなる脅威によっても取り除かれない主体性をもったと自負するようになるとき、新しい日を出発することになるのです。

10イエス様は、「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」(ルカ四・二四)と言いました。ところが統一教会の先生は、皆さんに、どこへ行きなさいと言いましたか。故郷に行って先祖になりなさいというのです。そのような歴史はありませんでした。聖書にそのような教えはありません。
故郷では歓迎されないとあるのに、「今はもう故郷で歓迎を受ける時が来た」と語るのです。それは、先生のみ言であり、間違いなく天の経輪の中で現れるべき言葉です。ですから、故郷に行きなさいというのです。

36皆さんが故郷を訪ねていくのは、新しい種を植えるためです。アダムとエバの種が不出来な種になったので、皆さんを通して新しい種を植え、新しい根を下ろそうというのです。新しい種を植えるときは、肥料を与えなければなりません。ですから、悪口を浴びに行かなければならないのです。理解されない立場で悪口を浴び、苦労をたくさんしなければなりません。三年も必要ありません。六ヶ月あれば、すべて終わるというのです。

カテゴリー:今週の説教 - 14/03/12掲載

説教(3月2日)

■題目:孝子の道理を果たす私自身・私の家庭となろう

■説教者:徳野英治 会長

■御言訓読:平和経(第1編 2「人間に対する神様の希望」)

したがって、主体という存在にとって、対象はどれほど価値があるかということを、私たちは否定できません。それは、常識的に認めなければならない問題です。私がこの場に立って、聴衆もいないのに、こぶLを振って「おお」と言うなら、狂った人だと思われるでしょう。しかし、一人の足の不自由な人であっても、その人に対して目を見開いて語っているとすれば、それは精神病者ではありません。また、誰一人いなくても、小さなものを見ながら、喜んで詩を詠んだとすればどうでしょうか。それを狂っていると言えますか。

これは何を意味するのでしょうか。相対圏が「絶対」を擁護する絶対的な原理をもっていることを主張しているのです。それが対象の価値です。神様がいくら気高く、偉大だとしても、対象がいなければどうするのでしょうか。神様はうれしいでしょうか。一人で喜ぶことができるでしょうか。ですから、神様は喜ぶために対象の世界を創造されたことを知らなければなりません。

ある宗教では、神様は神聖で高潔な方であられ、人間は悪なるもの、罪悪にまみれたものなので、創造主と被造物は同等にはなり得ないと主張してきました。このような信仰は、根本的に間違っているのです。対象がいなければ、どんなに偉大な人でも、どんなに悟りを開いた人でも、どんなに絶対的な人であっても、悲しいのです。

私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているからであり、主体に似ているからです。この問題が、これまで度外視されてきました。絶対的な神様のみ前に、絶対的な対象の価値をもち、堂々と登場する権威を失ってしまったというのです。

カテゴリー:今週の説教 - 14/03/04掲載
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