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説教(12月18日)

■題目:言葉をよく主管しなさい

■説教者:和田康伸 教区長

■御言訓読:ヨハネによる福音書(第1章1節~5節)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

■説教内容

昨年の8月29日に「言葉と信仰」という題目をもって説教しました。
ヨブ記を訓読しながら信仰生活において言葉がどれ程大切であるかという事を説教しました。今私達は天一国創建3年路程の2年目を越えていく、原理で言えば長成期完成級を越えていくとても難しい時期を越えていかなければならない立場に立っていると認識しています。
その中で改めて言葉の重要性を感ずる事が多々あります。一部昨年の説教内容と重複する部分がありますが、言葉の重要性についてお話したいと思います。

ヨブ記を見てみますとヨブは2回の大きな試練を受けたと書かれています。神様はヨブを高く認めていましたが、世界の隅々をまわってきたサタンが神様に「本当にヨブはそうですか?」と言いました。結局ヨブは2回の試練を受けました。

1回目の試練は、試練を受ける当時ヨブは恵まれた生活をして、清く正しい生活をしていました。しかし突如、ヨブの家族、全ての財物がことごとく奪い去られていくという大きな試練を受けました。夫婦二人取り残されてしまいました。

それでもヨブは信仰というものを曲げはしませんでした。その部分を聖書で読んでみると、「これらの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かな事を言わなかった」と書かれています。見事試練を越えて信仰を全うしました。

ところがヨブの試練はそれに留まりませんでした。また大きな試練がヨブを襲います。今度はヨブの健康です。頭のてっぺんからつま先まで嫌な腫れ物が体中を覆ったと書かれています。一般的にはらい病ではないかと言われています。その当時にはらい病は不治の病とされていて、最も恐れられていた病でした。

このらい病にかかり非常にヨブは惨めな姿になりました。このあまりにも惨めな姿にヨブの妻は「もう神を呪って死になさい」と恐ろしい事を言ったと聖書に書かれています。しかしヨブは信仰を全うしました。このことからヨブはその唇をもって罪を犯さなかったと聖書では書かれています。

実際読んでみるとヨブは試練を受けて落ち込みます。ですから大きな災難を受けたヨブを慰めようと3人の友人がはるばるヨブを訪ねてきます。しかしあまりにもヨブは悩んでいたので3人の友達もどう声をかけて良いか分からず7日間無言で過したと書かれています。

最終的には神様がつむじ風の中で現れて神様自らヨブを励ますのです。「あなたは腰に帯して男らしくせよ」と何度か語るのです。そしてヨブもそれで本当に納得して再び起き上がるのです。そしてその晩年ヨブは神様から祝福を受けて恵まれた人生を送ってその生涯を閉じたと書かれています。

ここで一つ注目すべき所は、この2回の試練を受けてなんで神様とサタンが、ヨブは試練を越えて勝利したと認めたのかという事です。それはこの聖書を読む限りはっきりとしています。ヨブはその唇をもって罪を犯さず、神に対して愚かな事を言わなかったからです。

もしヨブが2回の大きな試練を受けた時に、「あ~神様なんでこうなんですか、神様などいない、神様は私を愛していない」等と、もしヨブが語ったとしたならば、恐らくヨブはこの試練を受けて勝利者と認められる事はなかったと思います。試練を受けた後、ヨブが何を語るかを神様もサタンもじっと注目していたのです。その時にヨブはその唇をもって罪を犯さず、神様に対して愚かな事を言わなかった、この言葉の故にヨブは義人とされ、そして晩年多くの祝福を受けて恵まれた人生を歩むようになったのです。

これからも分かるように私達の信仰生活にとって言葉は非常に重要であり、言葉をどのように主管するかによって、信仰生活は大きく変わっていきます。言葉は語る人がいます。また言葉を聞く人がいます。言葉は語る立場もあり聞く立場もありますが、語る立場においても聞く立場においても、いかによく言葉を主管できるのか、これが私達の信仰生活においてとても大きいと感じています。

実に言葉には不思議な力があると思います。よく日本では言霊(ことだま)という言葉を使います。言葉には凄い威力があるのだと、語った言葉は一つの言葉とてむなしく消えてなくなってしまうものはない、私達の語った言葉が一つの原因となって、その原因に相応しい結果をもたらします。

良き言葉は良き結果をもたらし、悪しき言葉は悪しき結果をもたらすと言っていると思います。言葉はその使い方一つによって人を生かす事も、人を殺す事もできます。非常に大きな力を持っています。

ある教会のホームページを開いた時に、「心温まる言葉」という部分がありました。そこにはあるお話が載っていました。実話だと思います。その方は早くお父さんを亡くされ、お母さんによって育てられました。お母さんと息子一人、二人の生活でした。お母さんと二人で生きていくには簡単ではありませんでした。

貧しい生活でした。学校でも時々問題を起こすし、一時はグレてしまった生活でした。学校に何度かお母さんが呼び出しをくらい注意されました。不思議にお母さんは「うちの子は本当に良い子なんです」と口癖のように言っていました。普通なら子供を叱るのではないでしょうか。お母さんも叱らなかった事はなかったでしょうが「あなたは良い子だ」といつも言っていました。やがてお母さんも亡くなりました。

その後になって息子さんが、実は自分がそこの家庭に養子にもらわれてきた事を知りました。そしてお母さんがいつも自分を擁護してくれた、いつも守ってくれた事を深く感謝しながら立ち直って、立派な社会人として生活しているという話です。

本当に心温まる話です。「うちの子は良い子なんです」「あなたは良い子だ」というその言葉がすぐには結果としてあらわれなかったとしても、何度も言い続けた言葉はその息子さんを生かしました。その言葉が支えとなって立派な社会人となりました。実に言葉は人を生かす力があるという事です。

それとは反対に言葉が人を殺す事があります。新聞等で見てみると学校のいじめの問題はいつもあります。一時に比べてみれば多少少なくなってきたように思いますが、それでも時々学校のいじめや子供が自殺したというニュースが絶えません。大体自殺の原因は学校でのいじめが多いように思います。それだけではないかもしれませんが大きな要因となって自殺する子が多いのです。

いろんないじめがあります。物を隠されたり、無視されたり、言葉のいじめ「死ね」「キモい」などの言葉。それを何回も繰りかえされていくとたまったものではありません。特にまだ幼い子供ですから、そういう言葉をもろに受けたりします。自信を失い、希望を失い、毎日が辛くなって、そして自殺に追いやられていくというケースです。

この場合、決して刃物を使っているわけではありません。具体的に殺人を考えてみたら本当に恐いです。人を殺すという事はどういう事でしょうか。それを考えただけでも恐ろしいです。しかし人を殺すのは刃物を使わなくても言葉で攻撃する、「死ね」「キモい」を毎日繰り返していけば人は本当に精神的に参ってしまって立ち直れなくなる事もあります。

霊的死。そう考えてみれば本当に言霊といわれるように、言葉は大きな力を持っていて、使い方一つで人を生かしもし殺しもする恐いものだと思います。私達は生きていく時に毎日生活する中で、どれ程多くの言葉を語るでしょうか。

無口な人であったとしても一日トータルすれば多くの言葉を語っているに違いありません。それ以上に、耳には沢山の言葉が入ってきます。人の言葉、新聞を読む事、週刊誌を読む事、それを含めて全部言葉のいきかいです。

多くの言葉に囲まれながら生活しているのが私たちです。しかしまわりの言葉がどこからきたものであるのか、神様からの言葉(神のみ言)なのか、教会は基本的に神様のみ言が語られている所です。

また反面において学校や職場に行った時には、直接的には神様のみ言を聞くのは少ないかと思います。むしろ中にはサタンから発せられているような言葉が少なくありません。自分では分からなかったとしても大きな影響を受けながら生活している事を認識しなければなりません。

本当にサタンは言葉を巧みに使う存在であります。エデンの園におけるエバとルーシェルの会話を考えてみて下さい。神様は「どの木からも心のままに取って食べて良い。しかし中央にある木からだけは取って食べてはならない。それを取って食べたならきっと死ぬであろう」というみ言をアダムとエバに与えました。

天使長ルーシェルは「本当に神様はそう言われたのですか?」とたずねました。その時ルーシェルが「神様はそんな事は言わなかったに違いない」と正面から反対の言葉を言ったなら恐らくエバとルーシェルは言った言わないの論争になって、エバは誘惑される事はなかったでしょう。

しかし、ルーシェルは愚かな事はしませんでした。半ば神様が言われた事を肯定するような否定するような事でアプローチしながら言葉巧みにエバを誘惑して、最終的にはエバを堕落させていきました。取って食べる事が神様の御心であるかのように思わせてエバを堕落させていきました。

今回、週刊文春を読んで思いました。教会に対する批判の記事です。非常に巧妙です。文先生の動静、統一教会の活動について書かれています。少しずつ角度をずらすんです。何か一つの事実に対して本人自身がそうではなかったと言ったならば、事実に反する事になります。

しかし、そのような愚かな事はしません。「○○だという風に誰かが言っていた」「○○だという風に幹部は言っている」と伝言形で書かれています。実際の事実とは異なるように見せていくのです。そのように思わせていくのです。

拉致監禁も4300名の教会員がされているのに、一般の人達は統一教会が拉致監禁していると思っているのです。全く逆です。

報道で悪くしているので、実際は私達が被害者なのに、あたかも加害者であるかのように間違った認識をもたせています。言葉巧みに誘導していくのです。白いものも黒いもののように思わせるのです。イエスと言ったのにノーと言ったように思わせるのです。
非常に文章を考えた作者は、考えに考えて書いています。そういう言葉が私達の身の回りの言葉にどれ程多いでしょうか。

堕落論に書いてあります。サタンは心霊を主管しながら私達堕落人間を地獄のどん底に追いやっています。心霊を主管する手段の一つが言葉を用いるのです。知らず知らずのうちに多くの言葉を耳にするので、その言葉を見抜いて分別する力がないと、自然に心霊が落ちてきます。

その言葉が本当に神様からの言葉なのか、私に必要で神様が私を生かすために、神様がこの社会を良くするために与えて下さった言葉なのか、神様のみ言であるのか、それともサタンが私達の心霊を支配し、私を、この社会を罪悪世界に留めておくために発した言葉なのか、その言葉の背後にあるものを良く見抜いて、分別していかなければならないのです。

言葉には語る立場と聞く立場があります。言葉を主管するのも、語る立場で主管する、本当に人を生かす言葉、前向きな言葉、希望的な言葉、そういう言葉を発する事が信仰生活にとって重要です。

今語る内容は皆様に語ると同時に私にも語る言葉です。悔い改める事が多いと正直思います。言葉をもっと大切にしないといけません。そういう言葉を意識的にたくさん用いていかなければなりません。

先週の礼拝で宋総会長様がおっしゃっていました。私達がどういう風にして天運を相続するか、そのためには言葉を用いなさいという事でした。

その言葉は「ありがとう」「あめでとうございます」「お疲れ様です」「よろしくお願いします」です。
天運を相続し勝利するための言葉です。それをたくさん使いなさい、口癖のようにしなさいと語られていました。

こういう言葉を使う事によって自分も生かされ、人を生かされ、そこに天運が連結されていきます。
言葉一つによって明るくもなるし、勇気を与えられる事もあります。家庭では否定しても育たないと感じました。言葉を聞く立場においてもそうです。聞いて良いものと悪いものがあります。

私を生かし、人を生かし、社会を良くする言葉は神からの言葉としてしっかり受け止めて心に刻んで、心の糧として生活していかなければなりません。しかしそうでない言葉はしっかり分別しないといけません。分別できないとサタンとの斗いで勝利できません。なぜならサタンは言葉巧みに私達に相対するからです。分別し切り捨てていく力が必要です。

よく言葉を主管できる者であってこそ天国へ向かう事ができます。人は大きな石につまずく事はありません。大概小さな石につまずきます。小さな石の多くは言葉によるつまずきです。言葉に主管されるのではなく、言葉を主管してたくましく成長していく事が大切です。耳や目から入る言葉を分別しなければなりません。

物事自体には善悪はありません。包丁も家族を思い料理を作るなら善の包丁であり、人を刺すために使うなら悪の包丁であります。その方向性によって、神様を中心とした四位基台を成そうとする、神様の創造理想を成就しようとするなら善なるものであり、反対するものは悪なるものです。方向性は動機と目的で決まります。言葉は重要です。

統一教会は多くの恵みを受けています。もちろん苦労もありますが、冷静に考えてみれば多くの恵みが与えられていると思います。恵みの最たるものはみ言です。文鮮明先生が霊界と地上界の億万のサタンと斗い勝利して勝ち取って下さった尊いみ言が最たる恩恵だと思います。

み言はサタンが主管し隠してきました。人類を無知に追いやってきました。望めばいつでもみ言を受ける事が出来ます。歴史的にみてみ言を受ける事は決して普通の事ではありません。真の御父母様から頂いたこのみ言を一刻も早く与えたかった神様でありながら、語る事の出来なかった神様だったのだと思います。

神様が初めて口を開いてみ言を語られたのはモーセからです。モーセまでの聖人と神様の会話は私的な会話でした。人類に対する救いをかけた公的み言はありませんでした。神様は沈黙を続けてきました。神様はみ言をもって創造したが故に、み言に寄らずして人類を救済する事は出来ませんでした。

モーセにおいて初めて神様は口を開く事が出来ました。初めての公的み言として十戒のみ言を与えられました。たくさんのみ言の中でどれ程わずかなみ言だったでしょうか。八大教材教本とみ言選集すべてを伝授されるとこの壇上が埋まってしまいます。それ程神様はたくさんみ言を語られたかったのです。

しかし何も語る事が出来ず沈黙するだけの神様でした。ようやくモーセにわずか10のみ言を伝えただけです。それからイエス様が来られて新約のみ言を語られました。イエス様は目に見えない神様をわかりやすく語って下さいました。

初めてイエス様は神様が親であると語られました。親の愛がどういうものであるかを語られましたが、それとて完全なものではありませんでした。イエス様は親の立場に立つ事ができませんでしたので、親である神様の愛について語っては下さったが、充分ではありませんでした。

ヨーロッパの教会へ行くと、イエス様のレリーフが書かれています。なぜなのかと言うと、聖書は一般の人達が読む物ではなかったのです。それでイエス様を教えるために彫刻を見ながら説明したのです。語る人の言葉を通してイエス様を認めていったのです。

私達は文字で読むのは当り前と思いますが、一般の人が聖書を読むのは400~500年前ぐらいであって、それ以前の人達は聖書を読む事も出来ませんでした。人類歴史を見れば、今私達が文鮮明先生からみ言を与えられて、神様について全てを明らかにして下さって、そのみ言を学ぶ事が出来るという事はどれ程有難いか分かりません。

私達は何気なく本を開きますが、本を開く事自体長い人類歴史の流れからみればごく一部の恵みを受けた人しか許されない恵みです。訓読しなさいと言ってもらえる事が有難いのです。今日に至るまで語る事の出来なかったみ言を全て語って下さった、八大教材教本として相続させて下さった事は本当に有難い事であります。

このみ言によって生かされ天の命の道へと歩んで行く事が出来る立場であります。時代的な恵沢としてその恩恵にあずかって命のみ言を与えられながら復帰の道を歩んでいるのです。文先生自ら訓読されながら訓読の伝統を立てて下さっています。

もう一度み言に立ち返って、神様のみ言をしっかり握り締めてそのみ言によって毎日生くる者でなければなりません。多くの言葉がありますが、その言葉を主管して、神様のみ言に生きる私達にならなければなりません。

長成期完成級の峠を越えていく時はいろんな言葉が飛び交います。神様の言葉をわからなくするためにサタンは更に多くの言葉を語ります。そして曖昧にします。正しく語り、正しく信仰の道を歩んでいかなければなりません。

言葉をよく主管しながら永遠の命の道へ続く毎日でありたいと思います。2011年も陽暦基準ではあと2週間となりました。神様と文鮮明先生ご夫妻と歩調を合わせて2011年悔いのない歩みをしていきたいと思います。

カテゴリー:今週の説教 - 11/12/20掲載
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