■題目:信仰生活の柱
■説教:和田康伸 教区長
■御言訓読:天聖経「真の神様」
真のお父様の見た神様
皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。
その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。
全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。
神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。
サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。
神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史路程を経ながら苦労される必要はないのです。
人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。
皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。
■説教内容
私たちの統一運動の目的は何かということを考えてみる時に、様々な形での表現が可能かと思いますが、真のご父母様はそれを“One Family Under God”、という言葉で表されていると思います。日本語に訳せば「神様のもとにある一つの家族世界」というところが私たちの統一教会を中心とした、統一グループの最終的な目的であると言えるでしょう。
私たちは、同じ親の元、神様という共通の親の元で人類は、同じ兄弟姉妹、その同じ兄弟姉妹が一つとなって、自由で平和で幸福な世界を作って行こうという、これが統一運動の最終目的地であります。
神様について考えてみると、その神様は、私たちの共通の親であると考える事が出来ます。しかし共通の親であっても、神様の姿をそれぞれ見つめる見つめ方は10人いれば10人、100人いれば100人の異なった見つめ方をしていると思います。
なぜかと言えば、私たちは、誰しもが親から生まれてきました。私にも両親がいて、その両親から生まれてきました。皆さんもそうだと思います。私たちは親から生まれてきたという点では、同じ立場に立っていますが、しかし私たちの親は同じではありません。私の両親は皆さんの両親と同じではなく、皆さんの両親も私の両親ではありません。そのように考えると私たちは神様が共通の親とはしていますが、その親は一人一人にとっては、決して同じではないのでは、ということがよくわかってきます。
先ほども言いましたように、10人が10人、100人が100人見つめる神様というのは、一人一人異なったイメージを持ちながら、私たちは親なる神様の前に、息子、娘として歩んでいくのだということなんだと思います。すなわち、神様と私たちの関係は本来的に、非常に個人的な関係、パーソナルな関係だということができると思います。
その神様といかに、私たちの信仰生活において、心情の因縁を結びながら、歩んでいくかということが、とても大切なのではないかと思います。英語の表現で、驚く時に“Oh,my God!”というのがありますが、「ああ、私の神様」と直訳できるわけですが、キリスト教の基盤があるだけに、神様と私たちの関係が非常に近しいものと感じられるときがあります。文字通り、神様と私という個人的な関係、個人的な因縁がどう結ばれるのかということが、とても重要なのではないかと思います。その観点からみると、私たちは同じ食口として同じ神様を親として歩んでいます。
私たち一人、一人が見つめる神様のお顔、神様の姿は、決して同じなのではなくて、みんながそれぞれの生い立ちやそれぞれの背景から違った神様の姿を見ているということになります。同じ親であったとしても、それは同一ではない、同じ兄弟であったとしても、兄のみる親と弟のみる親の姿は違っているかもしれません。
信仰生活の中でその神様とどのように個人的因縁を作って、信仰生活を歩んでいくかがとても大切なのです。ところで、私たち人類の実体の親である真のご父母様は、そのお父様が見つめてこられた神様の姿は一体どのようなものであったのでしょうか。その神様については統一原理で学んできました。直接的には創造原の第1節、神の二性性相と被造世界の個所で神様がどういう実体であるか、単的にその部分で語られています。
広く考えてみると、創造原理から再臨論まで、統一原理全体が表している神様はどのような姿であるか、それは一般の方が抱いている神様のイメージとは同じではないと思います。一般の人々が神様に対して抱いているイメージというのは、全知全能の神様、栄光の神様、愛なる神様というようなイメージを抱いているのではないでしょうか。
しかし栄光の神様というのはどうでしょうか。皆さんが毎日侍っていらっしゃる神様は栄光の神様なのでしょうか。少なくとも、統一原理を通して現れている神様の姿は栄光の神様ではありません。本来なら栄光の神様でなくてはならないのですが、現実に見えてくる神様の姿は栄光の神様ではないと、私たちは統一原理を通して知ることができました。原理を通して見えてくる神様の姿はどういう神様の姿かというと私は、悲しみの神様ではないかと思います。
そしてその神様はどういう歩みをしてこられたかとういうと、それは本当に私たちは考える事も出来ない、苦難の道を歩んでこられた神様であって、その神様がご父母様が私たちに教えて下さっている神様ではないかと思います。
神様が悲しんでこられた、神様が苦しんでこられた、こういうことは一般の人々が考えたでしょうか。彼らはそのように考える事は出来ないと思いますし、私もこの教会に導いてこられるまでそんなことを考えてみたこともありませんでした。皆さんはどうでしょうか、そのように考えてみたことがおありでしょうか。神様が苦労し、涙を流されているなどと一体誰が思ってみたでしょうか。
私は19歳の時にこの教会に導かれてきました。また私はクリスチャンではありませんでしたが、私の中で神様はどのような存在であったかというと、やはり天の玉座に鎮座ましておられる神様というのが私の描いていた神様の姿であって、どういうことが起きるかとういうと、19年の私の生涯においては悲しいこともつらいこともありました。
そういう時にその栄光にあるという神様のことを思ってみると、言葉が適当ではないと思いますが、私は神様に対して疎外感を感じたことを思い出します。本当に何か、神様というのは虚しいなあということを感じていました。つらく苦しんでいる私が神様とは無縁のものと思えたからであります。
しかし統一原理を聞いてみると、神様が悲しんで苦労されていると知って、私は驚きました、私の神観は覆されてしまいました。そういう神様であったのかと本当にびっくりしました。そしてそういう神様であることを知って、私がその19年の間に抱いてきた様々な問題が解けたような気がしました。ああ、そうか、神様は悲しみの神様であり苦しみの神様である。神様がそのように苦労して歩んでこられた道を私たちも象徴的に歩んでいるのだなあと思った時に自分の歩んできた19年の人生がスッと解けたようなそんな気がしました。
そして苦労の神様、悲しみの神様と聞いていましたので、私は神様のために生きたいと思いました。なぜなら私の中には、親孝行したいという気持ちがあったからでした。皆さんも色々な家庭環境の中でご両親に愛されて育ったことだと思います。私も家庭の中で両親の愛を受けて育ってきたという実感がありました。
私の両親はすでに他界しておりますが、本当に素朴な人間でお茶とみかんの農家を営んでおりました。みかんの消毒や、出荷の時などは今とは比べ物にならないほど苦労が多く、常に働き、苦労していたと思います。
今でこそレジャーを楽しむということもありましたが、当時はそのようなこともなく、「ああ、寝る時が一番楽でいい。」という母親の言葉は、本当に悲しく、今、大人になって、そのこと思うとなんとも言えなくなります。一生懸命に働く親の姿を見て、親には迷惑をかけたくない親孝行したいという気持ちが芽生えてきました。
19歳までぐれる事もなくなんとか歩んでこられたのは、苦労する親の姿を見ていたからで、何とか守られたのかなあと思います。そして19歳の時神様が悲しみの神様であり、苦労されている神様であり、そしてその神様が親なる神様であることを知った時、神様のために親孝行をしたい、この道を行きたいと思ったわけです。
さて神様と私たち一人一人の関係はそれぞれ違っていると思います。それではお父様と出会っている神様は、どういったところで出会っているのか。それはこれまで誰もわからなかった神様の悲しい心情、神様の苦しい事情を他の誰よりもよく知っておられるのが真のお父様であります。
実際に今日、訓読していただいた、天聖経の中の「真の神様」に、お父様と出会った神様、お父様がご覧になった神様のことがいくつかの項目に分かれて書いてありますが、そのみ言を読んでみる時に、真のお父様ほど神様の悲しい心情を知っておられる方はいないということ、本当に神様の悲しい心情と苦難の道のりをずっと見つめてこられながら、神様の前に親孝行したいという心情で、この復帰摂理の道のりを一目散に歩んでこられたのだと思います。もう一度このみ言を皆さんとともに訓読したいと思います。
(以下、「真のお父様の見た神様」を皆で訓読。)
このように「真のお父様が見た神様」のみ言を見ると神様の心情を見つめながら、親孝行をしたいと思われるお父様の心情を見る事が出来ます。私たちも成約聖徒として導かれた立場として、神様の苦労する世界を日々の信仰生活の中で見つめる努力をしなければならないのではないでしょうか。神様の歴史は悲しみの歴史として出発しました。その神様の悲しみの歴史はアダムの家庭から出発しました。物事というのは、見つめる方向が変われば、その事実が異なったように見えてくるということがあります。
ですから私たちが聖書を読む時、そこには神様の心情を推し量る内容はあまり見えてこないのですが、原理のみ言を中心として見ると神様の心情がよくわかると思います、例えば、アダムとエバが堕落してその身を隠してしまった時、神様は彼らがどこにいるかわからなかったはずはないのですが、神様が、アダムとエバのところに来て、アダムとエバに「あなたはどこにいるのか」と聞いた時のその一言の中に、神様の悲しみと落胆がどれほどのものであったかが分かります。神様がアダムとエバの堕落を通してそれがどんなに神様にとってショックな出来事であったか、原理を通して私たちは学んできました。
そして子供であるアベルとカインの時から、救いの摂理が出発しました。メシアを送らなければならないが故に、人間が信仰其台と実体其台を造成しなければならないので、その責任分担を全うさせるために、神様はアベルは顧みられたが、カインとカインの供え物は顧みられなかったのですが、顧みる事が出来なかった神様の心情はどれほど痛んだでしょうか。本当は、蕩減復帰の道を歩まなければならないカインに対して、神様はカインを慰労し慰めてあげたかったに違いありません。どれほど悲しかったでしょうか。つらかったでしょうか。親としての愛をカインに表してあげる事が出来なかったのです。
このアダム家庭について書かれた少しのことの中でも神様の心情を垣間見ることができます。神様の言うに言えない事情、苦労している事情があるのです。私たちが信仰生活の中で、神様から、多くの恩恵を受けながらも、神様の心情の奥深くを訪ねてみる時には、神様のそのような悲しくつらい心情の世界を知ることができるのではないでしょうか。親が苦労しているという事実があるのです。
先日、スイスでの宣布大会に、宋総会長が同参され、訓読会に参加されたときに、真のお父様が泣きながら訓読をされ、その場にいる責任者たちに涙ながらに訴えられておられたということです。お父様は涙なくして語ることができないし寝ても寝られず、食事ものどを通られない様子であり、そこには切実な心情と深刻な事情をお持ちであります。
そういうお父様が見つめられる神様はいまだに解放されていらっしゃらないのではないでしょうか。そういう神様の心情を見つめながら、お父様は切実な心情と深刻な事情をお持ちであります。そういうお父様が見つめられる神様はいまだに解放されていらっしゃらないのではないでしょうか。そういう神様の心情を見つめながら、お父様は今も、前線に立って闘っていらっしゃいます。
私たちは神様の愛に包まれ、信仰生活を送っていますが、時には神様の心情と事情を求めて、お祈りすることも必要です。あなたの事情と心情を知らしめてくださいと。
喜びを語るということはそう難しくはありませんが、信仰生活をする中で、皆さんがこれまでの人生の中に悲しかったこと、つらかったことを皆さんの前で話すことができますか。私は語ることができません。それは私と神様の間のことです。神様はこれまで、どれほどつらく悲しく、大変だということを人に語ることができませんでした。神様はあからさまに表したかったことでしょう。イエス様もそうでした。ゲッセマネのお祈りの時、あまりにも、切実で深刻であれば、お祈りも一人でお祈りされたはずです。
ゲッセマネのお祈りの後、イエス様は弟子たちに、「私は、悲しみのあまりに死にそうである。」と語られました。だれかイエス様の心情の相対に立つものが一人もいなかったのです。その心情をだれにも語ることができませんでした。深い悲しみをその胸に秘めながら、誰にも語ることができませんでした。お父様ただおひとりそのようなイエス様の心情を私たちに教えて下さったのでした。
以前お父様が21年ぶりに日本に来られて、み言を語られた時、「イエス様はどんなお方だったのですか?」という質問がありました。その時お父様は、しばらく天井を向かれてから下を向かれたときに、その時、水の落ちる音がしたということです。イエス様を思えば涙せざるを得なかったお父様であります。本当に神様の心情を知る方は誰でしょうか。本当に神様を思えば、痛哭せざるを得ません。
復帰の道を歩む私たちは神様の事情と心情を求めるものでなければなりません。神様の事情と心情に責任を持つ事が出来る私たちでなくてはなりません。
私たちの教会の歴史は涙の歴史といわれています。多くの食口の涙にぬれた道でありました。60年代には親泣かせの原理運動といわれました。その時多くの青年たちが信仰の道を出発しましたが、マスコミはこぞって親泣かせ原理運動と糾弾してきました。しかし、本当の神様ご父母様に出会い出発してきました。私たち統一信徒が持つべき心情はいかに、親を慰め、孝行して差し上げるかということであり、それこそが私たちの信仰的核であり、柱ではないかと思います。今日、外は雨ですが、神様の涙のようでもあります。