■題目:「親なる神の愛に抱かれる時である」
■説教:和田康伸 教区長
■御言訓読:
天聖経・真の神様(P69)
神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、あなたたちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。
絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしく思っていらっしゃいます。自己を主張することができない神様です。
完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたいと思われる神様です。そのような神様なので、考えるほどよいのです。
「私はすべて与えたので、これからはあなた方がもってきなさい」とおっしゃる神様ならば、必要ないのです。
神様は、私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたいと思われるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならよいだろうという限界を引いて与える、そのような愛ではありません。
無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」と言われます。そのようにさせる本質とは何でしょうか。愛です。神様も愛の中に入り、僕になってもよいとおっしゃるのです。
父は、愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんちをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。
■説教内容
私たちは人間を、また宇宙を創造された原因的存在である神様のことを知らなければなりません。この人生と宇宙に関する根本的な問題を解決するためには原因的存在である神様を知らなければならないのです。考えてみれば統一原理全体が、神様がどういうお方かということを説明していると言えると思います。
神様の事情と心情はどうであるかを私たちに具体的に伝えてくれています。その中でも神様がどういう存在で私たちとどのような関係かということは、創造原理の第1節、神の二性性相と被造世界で、神と人間の関係は親子の関係であり、父子の因縁で結ばれた関係であると説明しています。
私は、お父様が真理の探求を進められる過程の中で、いつ神様に出会われたのか、それは原理の解明を成されている段階の比較的早い時期に神様に出会われたのではないかと考えてきました。
皆様もご存じのようにお父様は16歳の時にイエス様に出会われました。そして、メシアとしての使命を告知されたところから、お父様の歩みが出発されるわけであります。16歳から専ら真理の解明のために歩まれ、9年をかけて原理を解明されたというお話を聞いています。
その真理探求のプロセスの中でいつお父様は神様と出会われ たのか?お父様は神様が親であるという一言を聞いて、来る日も来る日も泣かれたということです。
真理の解明においてお父様が最もてこずったといわれているというところは堕落論の第6節、「何故神様が人間の堕落に干渉されなかったか?」と聞かされていましたが、どうもそうではないようです。
実際、お父様の自叙伝の88ページを読んでみると、
「日本留学を終えて祖国に ~中略~ それま でそうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。
「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ。」という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。
人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。
子供のころ、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って9年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。」
すなわち、お父様が神様は親であるということを知り、そのことを初めて本当に体験されたのは実に真理探究の一番最後の段階であって、それゆえ、すべての問題は最後に解けたのでありました。
私たちのすべての問題の解決は親なる神様のもとに帰らなければ解決できません。究極的には神様が親であり、親である神様がわたしたちを愛しているということを知ることがすべての問題解決の糸口となるのです。
今日に至るまで6000年の復帰摂理歴史は善悪の闘い、アベルとカインの闘いでした。それが歴史を貫いてきた基本的な構図でありました。すべての問題はアベルとカインの問題というところに行きつきます。
さて、このひと時、アダムの家庭について考えてみましょう。
アダム家庭の摂理の目的はその家庭にメシアを迎える事でした。神様はその目的を中心としてこの家庭に接しました。その結果はどうだったでしょう。カインとアベルが、神様から願いを受けて、それぞれ供え物を持っていくことに なりました。
神様はアベルとアベルの供え物を顧みられましたが、カインの物は顧みられませんでした。カインは大変憤って顔を伏せたとあります。この二人を比べるとカインが年上で、苦労もしており経験もアベルよりはありました。
苦労という点でも、一般的に考えても、アベルの方が苦労は少なかったと思いますし、経験も少なかったと思います。
反対に考えてみると、カインの方が顧みられたかもしれません。この時アベルは自己牧会するのに、自分が顧みられなかったのは当然のことだと納得できたでしょうし、兄であるカインを殺そうなどとは考えなかったでしょう。
残念ながら、現実にはその逆であり、事は複雑でした、なのでカインは大変憤ったのでした。皆様は、神様を知り、愛のお方と信じていらっしゃいます。しかし、カインはその時、神様をどのように見たでしょうか。ああ私の親だとそのように思ったでしょうか。そういう境遇に立ったとしたら、私たちは神様が私の親だと思ったでしょうか。カインもそのように思えませんでした。
皆さん、私たちが原理を読んでみると、それぞれの摂理に教訓があり、そのひとつには、「神は人間の責任分担に干渉することができない」とあります。それはどういうことでしょうか。つまり落胆するカインに優しく慰労し、希望を与えてあげて、さらにホワイトボードを持ってきて原理講義をしてあげたとしたらどうでしょうか?
カインとしては、なるほどと言ってアベルと一体化してメシアを迎える基台ができたでしょう。しかしそこにサタンが登場します。「神様、あなたは人間の責任分担に干渉した!」神様が干渉したその時からアダム家庭の摂理は失敗に終わるということになるのです。
すべての摂理の教訓に「神は人間の責任分担に干渉することができない。」とあります。何度も何度も書かれてあります。神様の心情圏に立ってみると神様としては、本当に干渉したかったのですが、干渉することができませんでした。
責任分担という問題がなければ、神様はカインをかき抱き、あなたを愛していると言って、希望を与えてあげたかったに違いありません。私たちはその神様の事情と心情を知ることができますが、しかし、神様はそうすることができませんでした。そこに親としての無念さと悔しさを持っておられました。アベルとカインの双方に対して親としての心情を持っておりその心情に何の変りもありませんでした。
そういう心情を持って、神様はカインのことをどんなにつらかっただろうと、心ではアベルとカインが一体化してメシアを迎えるための基台が造成されることを望んで、じっと注視しておられたのでしたが、神様の見た光景はカインがアベルを殺すという最悪ものでした。
こういう歴史をずっと見てこられたのが神様であります。そして、私たちがどれくらい神様の事情と心情が分かる息子、娘なのか、私たちは、自分自身に問うてみなければならないのであります。私たちが苦しい立場にあるとき、親なる神様の愛を確信して歩んできたのか、私たちは親なる神様の心情を中心として歩んできたのか、自分自身に問うてみ なければなりません。
今は摂理的大きな転換期であり、日本が変わっていく 時、私たちが変わっていかなければならない時だと感じます。先日、文亨進世界会長様が来られた時に大変深いみ言を語ってくださいました。父母様について、メシアについて、「今なぜあなた方がここに座っているのか、それは皆さんの背後において功労があったのかもしれません。しかし、人間的な内容は二の次です、何故ここに赦されて座っているのか。それは父母様がすべての蕩減を完全に果たしてくださったからです。 それ故に、功労あるなしにかかわらず、この場に私たちがいる事が出来ます。」と私たちのメシア観を一変させるようなお話でした。
それがはっきりしました。私たちには真の父母しかいません。私たちが持つべきただ一つの観念です。
3月11日に、東日本大震災という思ってもいないことが起きました。多くの死者と行方不明者の数、その一人一人が本当に尊い人々です。報道を通して様々な方の悲しみを見てきました。親を亡くした子供たちや、愛する妻を探して、避難所を回る男性の姿も見ました。妻子を亡くされた方もいらっしゃいました。多くの方の痛みや悲しみを見てきました。
メシアが現れる時はどういうときでしたでしょうか?それは第二次世界大戦後でありますが、その時の韓国や日本のそして世界の状況はどうだったでしょうか。
今の東北・三陸地方は戦後の東京の景色とまったく同じです。第二次世界大戦後は、世界の人々が多くの人々を失って、悲しみ、何もない、希望が無くなる中で真の父母様が現れ、天一国を創建していくのです。
今私たちは瓦礫のなかで何もない立場で、新しい出発をしていくのです。摂理的に同じ時を迎えたのではないでしょうか。本当に真の父母様を迎える時です。
イエス様は言われました。私よりも自分の親、兄弟を愛する者は私にふさわしくないと。
また、文亨進会長様は「私たちには真の父母しかいない。真の父母様がすべてだ。」と語られました。
原理には、原理の力より、愛の力が強いとあります。神様は私たちを原理ではなく、愛で主管したいがためでした。私たちの立場で見ると、今は義務感、使命感で歩むのではなく、神様と 真の父母様の愛に主管されながら、どうぞ、私が行かせてくださいと言って行く時代です。
そしてそれは、平坦な道ではなく、大変な道には違いありません。そうであるが故に、神様と真の父母様に親孝行したいと言って、どうぞ行かせてくださいと言って行く道なのです。
実際、教会の歴史を見ても、振り返ってみれば、涙にぬれた道でありました。多くの食口たちが、苦しんできました。
今この時にも、拉致監禁されて苦しんでいる食口もいます。それでも食口たち は神様と真の父母様に親孝行したいのです。神様には愛することができない事情がありました。
しかし、それは過去のことです。今は違います。
親なる神様に抱かれながら、真の父母様に抱かれながら、力強く前進する時です。イエス様は初めて神様が親であることを教えて下さいましたが、十字架につかなければなりませんでした。真の父母様は実体を持って示して下さいました。真の愛を示すことのできる時を迎えました。
神様は近くにおられ、苦労の時は決して離れることなく、私と苦労をともにして越えてゆかれる神様であります。
皆さんも何度かそのような経験をされたでしょう。神様の愛に抱かれて、新しい歴史創造の中心の立場に立たせて下さり、神様と真の父母様を証し出来る立場に立たせて下さっています。愛に主管されながら歩ませていただく私たち。神様に出会ったことに心から感謝しています。
神様のことを思えばもっともっと苦労させて下さいと言わざるを得ません。そのように行く時を迎えました。復帰の道を力強く前進していきましょう。