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説教(11月13日)

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■題目:天一国創建の決意

■説教者:和田康伸 教区長

■御言訓読:ルカによる福音書(第15章11節~32節)

また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。

このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

■説教内容

今日の訓読はルカによる福音書の放蕩息子の話です。聖書の中では有名な話です。私は福音書を読む時に本当にイエス様は神様の事をいろいろな例えを使って分かりやすく私達に教えて下さったと思います。

皆さんご存知のようにイエス様がこの地上に来られた時はもう2000年も前の事です。私達は原理を通して6000年前に人類歴史が始まったという歴史観にたっていますから、2000年前と言ってもそれ程昔だという感覚がないですが実際の歴史、例えば日本の歴史で2000年前に何が起こったかと考えてみても分かりません。

なぜならばどんな状態であったかという事も分からない時代なのです。中国の魏志倭人伝を見てみると3世紀~4世紀頃に日本はいくつかの国に分かれて闘っていたと書かれていますが、紀元前後の事に関しては一切分かりません。

また日本には言葉もありませんでした。ですから2000年前に日本がどういう時代であったか分かる人はいないのです。それ程昔の事です。それ程昔の時代に目に見えない神様を人々に教えるというのはどれ程難しかったでしょうか。その難しい事に対してイエス様は分かりやすい例えで神様の事を紹介して下さいました。
この放蕩息子の話、また100匹の羊の話があります。99匹は羊飼いについていった。しかし1匹だけ迷ってしまった。その場合羊飼いはどうすると思うかと聞かれるのです。羊飼いは99匹を山に残しておいて迷い出たその1匹を探し出しに行くのであると書かれています。

このような平易な、分かりやすい例え話を通して神様がどういう方であるかという事を私達に分かりやすく教えて下さいました。従って私達が聖書を読む時に、この放蕩息子の話を読む時に、本当に神様は私達の親として大きな広い心で私達を受け入れて下さるのだと、その神様の無限の愛というものについて、この放蕩息子の話を通して私達はその世界を知る事が出来ます。今日は一時の時間を通して親である神様という事について少し原理的な観点からお話しをしてみたいと思います。

皆さんご存知のように統一原理では「神様は私達の親であり、私達は神様の子供である」と書かれています。この神様と私たち人間の間に結ばれた親と子供という心情の因縁、父子の心情の因縁が神様の創造理想の原則の一番中核となったという事であります。

この神様と人間が親子であるというその原則を中心として神様の創造の御業が展開されてきたという事を私達は学びました。従ってこの神様と人間が親子であるという事実は統一原理の最も確信、最も本質であると言っても過言ではありません。

私達が統一原理を学ぶ時、直接的には神様の事はどこで書かれているかと言うと、第一章の創造原理の第一節「神の二性性相と被造世界」で語られています。ですから私達が原理を学ぶ時に最初に神様が親で私達がその子供であるという事が出てきます。

実際に文鮮明先生の自叙伝を読んでみると、その事実を発見したのは文先生が9年間にわたる真理探求の最後の段階で初めて悟らされた内容であったとあります。今まで文先生が、神様と人間が親と子供の関係であると悟ったのは真理探究の比較的早い段階で悟ったのかと個人的に思っていました。

しかし自叙伝を読んで、親と子供の関係であると悟ったのは一番最後であると初めて知りました。自叙伝にはこのように書かれています。

=「平和を愛する世界人として」(P88 L5~P89 L2)=

”日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞に再び腰を落ち着けて、明水台イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。

そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。
「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」
という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。

人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。”

イエス様に出会って9年目、真理探究の最後の段階で初めて文先生は神様と人間が親と子供の関係である事を悟ったというのであります。そしてその瞬間にアダムの家庭から始まる人類の歴史がお父様の目の前にパッと広がって、その長い歴史をどのようにして神様が見つめてこられたのか、その歴史の全容が映し出された時に、涙を留める事が出来なかったという事であります。

従ってこのような事を考えてみる時に私達が親なる神様を正しく知るという事がこの人類歴史の全ての問題を解決する、その鍵を握っているという事を知る事が出来るし、それは同時に私達の個人の人生問題においても、その人生の様々な問題を解こうとする時に、その全ての鍵を握るのがこの一点にあるという事です。
私達がもし神様の心情や事情、愛というものをよく理解する事が出来たなら、私達は人生の全ての問題のみならず、社会の抱える問題、歴史の問題の全ても解決する事が出来ると考えます。天から与えられた命題というものを私達は日々の信仰生活を通していつも確認しながら親と子の関係を日々深めていく事が信仰生活にとって極めて重要である事を理解しなければなりません。

さて、このようにして聖書の記述では放蕩息子を本当に心から歓迎してくれたお父さん、帰ってくるまでどれ程悲しくて辛い日を送った事でしょうか。おそらくこのお父さんは毎夜毎夜、枕を熱い涙で濡らして夜休んだに違いありません。私達はこの原理を通して父親というものについて考えてみる必要があります。

統一原理では創造本然の人間の価値はどういうものであるかという事を3つの形で表現されています。キリスト論の中には、創造本然の人間は神的価値を持っていると書かれています。すなわち価値において私たち人間は神様と等しい価値を持っているという事です。一人一人が神様と同じ価値を持っていると原理では書かれています。

そしていま一つ創造本然の人間は唯一無二の価値を持っていると書かれています。皆さんもご存知のように先日、世界の人口が70億に達しました。私達は70億人の中の一人にしかすぎません。時には自分に自信がなくなってしまって希望が薄れてくると何のために生きているのかと思う事があります。

自分一人ぐらいいなくなっても良いのではないかと思う事があるかもしれません。自分の価値が見失われてしまう事もあります。しかし、原理では唯一無二の価値があるというのです。他の何者にも変えられない唯一無二の価値を持っているのが私達人間なのです。素晴らしい価値を持っていると言われています。そしていま一つ創造本然の人間は天宙的価値を持っていると書かれています。

以前、日本でハイジャック事件が起こりました。ヨド号事件です。彼らは自分達の仲間の釈放とお金を要求しました。もし受け入れなければみんな殺すと言いました。非常に難しい判断です。

当時の福田首相は結局犯人の要求を受け入れ人質を解放する道をとりました。その時に福田首相は「人一人の命は地球よりも重い」と言いました。この言葉を聞いてそんな事はないと言う人はいないと思います。人間の命は尊いのだと思ったに違いありません。

しかし原理では、地球もそうですけど天宙的価値を持っている、地上世界のみならず目に見えない世界まで、神様が創造して下さった全被造世界に匹敵する価値を持っている、従って私がいなければこの被造世界も神様にとって無味乾燥な世界になってしまいます。

原理では創造本然の人間の価値を、神的にして、唯一無二にして、天宙的な価値を持っているのです。神様はそういう立場で私達に命を与えて下さったのです。うれしくなる感じがします。もし人間が堕落しないで創造本然の人間であったならその親なる神様はどれだけうれしいでしょうか。

顔を見る度に、声を聞く度に笑いが止まらない、それが神様なのです。それが創造本然の世界における神様の毎日の生活です。天の玉座にお座りになって人間世界を見ながら毎日笑っている生活です。その世界を願って神様は人間を中心とした被造世界を創造されました。

しかし、人間は堕落してしまいました。それがどれ程ショックだったでしょうか。聖書を読むと堕落した後のアダムとエバは神様と顔を合わせる事を恐れ、木の陰に身を隠すのです。しかし神様はそのアダムとエバを訪ねて来られ話しかけるのです。その時、神様は歩くのも精一杯の状態で、ヨロヨロしながら振り絞って声をかけた神様でありました。

堕落する事によって本然の人間とは似ても似つかない姿となってしまいました。今の私達はどういう姿なのでしょうか。復帰原理を見ると、私という人間は蕩減復帰摂理歴史の所産であると書かれています。蕩減復帰摂理歴史そのものが罪悪歴史ですので、罪悪歴史の結実体です。全身全霊汚れた立場で生まれて歩んできた事を残念ながら認めざるを得ません。私達に自分の姿が見えなかったとしても神様が私達の姿を見る時にどれ程汚れた姿に映っているでしょうか。

韓国の清平修練苑に皆さん行かれますか?役事をします。体をたたくのが最初よく分かりませんでした。しかし何回か役事をする中で、本当に役事を通して自分の中から恨霊が出ていくのが分かるようになります。どこに隠れていたのかよく出てきます。どれ程多くの恨霊が私達の中にいるのでしょうか。

みんな霊的にはそういう立場です。6000年の罪悪歴史の結実、神様の目から見てみたらとても見る事が出来ない姿になってしまいました。本然の人間と親子の関係を結んでいく神様はとても喜びと希望の世界だったに違いありません。しかしその人間自身が堕落して汚れた姿となれはて、具体的な生活、具体的な人生の営みを考えれば多くの不信仰を犯していくその人間と親と子の契りを結んで神様が歩んでこられるという事は神様にとっても簡単ではなかったのではないでしょうか。

ある森山先生の証しを思い出します。感動的なのは紙芝居の話です。紙芝居は1回5円だそうです。紙芝居は良い所で終わり帰ってしまいます。次回見たいという一心で継母の財布からお金を盗んでしまったそうです。ある夜、目を覚ますと、継母は泣いていました。そして火鉢で「操が悪いのではなく、この手が悪いのだ」と言って、子供の手をたたくのではなく自分の手をたたいて泣いていたのです。

その光景をみて初めてお母さんと呼ぶ事が出来るようになったのです。子供の犯した罪を人の罪に思うのではなくて、親の立場からすればそれは自分の罪と同じように感じられるのです。子供が罪を背負っているとすればその罪を親も背負うという事なのです。親と子供が一身一体の立場で罪を背負うという世界なのです。

堕落した世界では人間がサングラスをかけないと見れないような姿になったとしても、神様が親であるという観点から見れば目を背ける事も、捨て去る事もできませんでした。そういう汚れた子供を自らの汚れとして受け止めながら、その子供と運命を共にしてこられた神様であったという事を知る事ができます。神様は本来的には喜びの世界を願って創造されました。

しかし人間が堕落した事によってこの地上世界も霊界も全てサタンが主管する罪悪世界となって、被造世界は悲劇の劇場となりました。個人から始まって家庭、氏族、民族、国家に至るまで神様の目の前で多くの悲劇が繰り返されてきました。その悲劇を決して遠い所から見つめていたのではなくて、親と子供という心情の因縁の故に全ての悲劇の中心に立ってきたのが親である神様でありました。

繰り返してきた多くの悲劇の中で、たくさんの先人達が涙を流し汗を流し血を流してきました。その時々において神様も同じように涙を流し汗を流し血を流して先人達と全ての歩みを共にしてこられました。2000年前十字架でイエス様が亡くなられました。その姿はどれ程悲惨だったか想像してみて下さい。

頭に茨の冠を被せられ、体中殴られ蹴られムチで打たれ全身が傷で腫れていました。両手両足わき腹から血を流されながら33年間の短い生涯を十字架上で終わっていかれました。どれ程悲惨だったでしょうか。イエス様の悲惨な姿は、イエス様の難しかった33年間を象徴する姿でした。

その姿は先人達の行かなければならない人生を象徴するものであり、さらに神様ご自身の姿でありました。アダムとエバが堕落してから今日まであの姿で長い歴史を歩んでこられました。どれ程申し訳ない立場でありましょうか。私達はまだまだ神様の本当に深い心を知らずに歩んでいる事が多いのかもしれません。お父様は神様の心情の深いところまでご存知です。いつも神様を慰めながら歩んでこられたのです。私達が人生の問題にぶつかる時、全ての問題の解決は神様の心情と事情を正しく知る所から解決が出て来ます。

放蕩息子の話でも、息子が帰ってきた時、非難する心があったのが当然の事でした。しかし父親の行為には攻める心も避難する心もありませんでした。父親にすれば息子の放蕩は息子の放蕩ではなく自分の放蕩のように感じられていました。だから父の心の中には非難がなかった、これが親の世界なのです。

私たちを見つめてこられた神様もそうだったのだと思います。別々ではなく一体であるという立場で私たちを訪ねてこられる神様です。神様の心情の世界、愛の世界を私達は多く知らないでいるのかもしれません。深い世界を知れば慟哭せざるを得ない、涙をとどめる事ができない私達ではないでしょうか。

文先生が親と子供の関係を知った時、泣き続けたのです。私達は本当に今親孝行したいと思います。歩んで来た道は決して簡単ではありませんでした。日本統一教会創立52周年を迎えましたが、多くの非難を受け、多くの批判を受け、迫害も受けてきました。4300名もの教会員達が拉致監禁されました。解放されても心の傷が深く廃人同様になって日常生活が難しくなった教会員もいます。

本当に難しい道のりを歩んできました。その道は神様に親孝行していく道、神様に親孝行したい心情が統一教会員の持つべき心情です。実体的にその道を行かれる文鮮明先生に親孝行してさしあげたいという思いでこの時を越えて行かなければなりません。

文先生は足が痛い中で必死に歩まれています。痛みをかかえながら歩むのは大変な事です。疲れを見せず歩まれる先生は年を取られました。いつまでも親に甘えてはいけない、親孝行するのは今しかないと思います。

そういう心情を持つ者が天一国創建の中心的な存在となっていくのだと思います。神様の事を思えば、もっと苦労させて下さいという思いで復帰の道を歩んで行く、毎日を生活していく私達でなければなりません。神様の心情、事情を知る事が私達の個人のかかえる問題、今の摂理を勝利的に打開する道も、そこからうまれてくると考えています。

新しい一週間、一人一人が孝行息子、娘としての歩みとなることを願います。

カテゴリー:今週の説教 - 11/11/17掲載
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