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説教(10月7日)

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■題目:天の前に恥ずかしい私であることを忘れてはいけません

■説教者:和田康伸 教区長

■御言訓読

信仰は恥ずかしさの涙と、感謝の涙と、喜びの涙のこの三種の涙を流さなければならない。
(「み旨の道」より)

だから、「祈りをするときも、『天の父よ・・・・・・』、祈りを始め、その後はものを言うことができす、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることが余りにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。」
(「マルスム」より)

一人の男がこんなにも弱くなり得るものか、と思ったこともありました。ある意味では同じ弱き一人の人間に変わりないのです。しかし自分をそんなにも頼りにしている神であることを知っていますから、そういう神の心情を思うと、いても立ってもいられなくなり神の願いを果たして神を慰めたいという思いにかられます。

 「神よ、全能なるあなたは、その望むところの何事も成すことがおできになりますのに、御自分の子なるアダムとエバの罪のゆえに、御自身をそのような苦悩の中に陥れられました。苦しむべきいわれもないあなたが、かくも寄る辺なき身となられて、真に頼ることのできる子女を、そんなにも長い間ひたすら待ち続け、探し求めてこられました。私にはそういうあなたのお心がよく分かります」。

 誰でも、先生の内面の世界をかいま見ることでもできたならば、ただ“わっ”と痛哭せずにおれないでしょう。特に、常に神に祈り、霊界を見たり啓示を受けたりしている霊通者たちは、みなこういうことを言ってきます。「文先生について祈る時は、いつも決まって神様からの答えは“涙”です」と。先生のことを祈ると神様は泣かれるというのです。寂しい一人の人、文先生を見つめる時、人知れずすすり泣いておられる神様なのです。
(「み旨と世界」創立以前の内的教会史 より)

カテゴリー:今週の説教 - 12/10/10掲載
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