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説教(10月30日)

■題目:私を見たものは神を見たものである

■説教者:横井捷子 先生

■御言訓読:マタイによる福音書(第5章48節)

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

■説教内容

1963年6月6日が私の入教日になります。石井元会長が、断食をしながら講義をしてくださり伝道されました。”全てを知って立ち上がれ”などの本を見ながら講義を受けました。その後、10日間の修練会に参加するよう進められ、当時、仕事をしていたので、10日間も休みを取ることは簡単な事ではありませんでした。

この内容は、人間であったら誰でも聞かないといけない内容であると言われていて、では、他の人はどうするのですかと尋ねると、この話を聞くにも順番があると言われました。参加することによって何か変わるのではないか。何か変化をもたらすに違いないと思い参加しました。

まず、最初は100%、一方的に原理講義を聴いてください。と言われ耳で一通り聞きました。
次の3日間は書くことに専念し、講義内容を深く理解することができました。
特に、メシヤ論と同時性に感動しました。今まで自分が井の中の蛙だったと感じさせられました。父親との関係もとても良好で、心情がともて近かったですし、母親とも、いつも一緒にいて、何の苦労も知らずに育ってきた私でした。

そんな私でしたので、今まで、何も知らなかったことへの悔い改めをしました。もし、2000年前に、イエス様に私を見たものは神を見たものであると言われる場面に居合わせたなら、私は、こう思ったでしょう。メシヤであるなら、どうして自分を救うことができないのか?と。

それまで信仰を持っていた仏教では、死ぬ時にその人の一生を振り返ることができると言われます。死ぬ時がとても重要で、イエス様に対して、何が救い主かと、思ったに違いありません。そう思うと、自分自身が、イエス様を十字架に追いやった張本人であることを悟り、とても悔い改めさせられました。

同時性の講義は、生きた神様がこんなに身近にいらっしゃり、今も生きて働いていることを実感しました。歴史を通して、実証してくださることに感動しました。
多くの教会員は、3年で、地上に天国ができると信じていましたが、私は、そうは考えず、その時から37年後の2000年までに、一人でも多く、神様を伝えないといけないと感じたのです。

最後の3日間は、心で聞かないといけないと言われて、路傍に出ての伝道活動でした。伝道活動は、白い垂れ幕を掛けて、新宿の西口で叫んでいたので、到底、自分で実行できることではないと思っていました。そんな私が、一人でも多くの人に伝えるためにはどうしたらよいだろうか?と考えるようになり、全国に、全世界にメシヤは来られていると伝えたい。そんな気持ちに変わってきたのです。

昔、終戦直後、ビラを空中からばら撒いて、終戦を全ての人に知らせたように、メシヤを伝えないといけないと思うように変わってきたのです。自分が気違いのようになり、伝道を始めるようになりました。
10日間での修練会により、自分という神殿が崩されてしまったようでした。それまでは弱かった自分でしたが、霊肉共に完全に変わってしまいました。

何のために生まれて来て、何のために生きなければいけないのか?それまでは、人から良い人と言われるほど、偽善者ではないかと、信仰をもてば持つほど葛藤しました。手当たり次第、霊界の本を読んだり、悩んだり、生まれながらにもっている自分の性格など、自分のことで悩み、泣いていました。

小学校二年の時に、そのように悩んでいたので、姉から薦められて、菊池寛全集などを読んでみたりもしました。そうして、感じていたことは、いつ死が訪れても、何の悔いもない人生を送りたいと言うことです。全ての人が幸せになれる世界にならないといけない。と結論付けるようになり、ある人は、それは共産主義です。言いました。

そのように悩んでいるとき、仏教の信仰を持った人が、私の家に尋ねて来ました。母は体が悪かったので、一緒に付き添って行きました。帰宅後は、二人で毎日30分のお経を読み、熱心に信仰を持つようになりました。6年生の頃は、日曜日に、3時半に起床し、中野駅や新宿駅の掃除をする当番をしました。

それでも、一生懸命やればやるほど、自分の根っこにある罪、偽善の思いが強くなりました。人間とはなんぞやと言う疑問を持ち、学校の先生に問うように、また思いを伝えたりしました。その先生の答えは、人間はあり地獄、いくらあがいても地獄にいくと言うものでした。そうして、これからどのように生きなければいけなのか?と悩みました。

私自身の幸せのために生きていくことはできない。誰かのために生きることによって、私の存在価値があるということを感じるようになりました。そうした想いを抱きながら、何年か過ぎて、石井さんと出会うことができるようになったのです。

どのような人格を持つべきなのか?理想世界、人格完成になるか?それらの思いに明確な回答がありませんでした。それらの問題を原理が全て解決してくれたのです。
また、どうしても解くことのできない問題に、愛の問題がありました。どこかに私にふさわしい人かいると思いつつ、ただ生きて行くことはとても罪だと思われるようになり、睡眠薬を飲んで、死んでしまおうとも思いました。

その愛の問題を解決するために、文鮮明先生は、祝福を与えてくださったのです。あなたは、生まれて良かったと言ってあげられる親になれなければ、結婚することができないと感じていたからです。その人生を変える力は、信仰でなければいけないと思っていました。

堕落人間には、創造本然の世界のことを一言も言うことができません。2000年前のイエス様以外に言えませんでした。それは、天から来られた人しか言えないのです。そのことを、チェコで共産党に尽くしていた教会員から悟りました。

その教会員は原理で、イエス様は、十字架にかかるべきではないと言うことを学習し、そのようなことを言える人は、再臨のメシヤしかいないと言われました。日本に寄った際、その証をしてくれました。

本当に原理は、語れば語るほど、その価値を理解することができますが、原理の中で堕落論は、どうしてもピンときませんでした。そして、二人の男性の伝道対象者が現れるようになりそのことを通して、エバであること自体が、罪であることを理解しました。私たちが存在するだけで、どれだけ罪を犯していたのか?
あまり罪のことがわかりませんでしたが、エバの存在そのものが罪であり、ぬぐってもぬぐいきれない深い罪であることを悟りました。

それまでは、文先生対する考えは、大々先生と言うイメージでした。文先生を自分の父とは思えないでいました。それでも、泥だらけの犬が抱きついてきたら、主人は、無条件に抱きかかえるように、文先生は、私を包み込んでくださる。そのように、罪を理解することにより感じることが出来るようになりました。

霊的には、いつもすぐそばにいらっしゃると感じることが出来るようになり、息をしてみても、今日はこんなことが遇った、神様に申し訳ない思いをさせてしまった。そのように、文先生の存在がとても近くに感じられるようになり、その後、文先生にお会いした際、「私の夢を見るものがいるか?」と聞かれたことがあります。私たちがチャンネルを合わせれば、誰でも夢を見ることができるのです。そのような、全ての人類の父母なのです。

一から十まで、文先生と気持ちが一つになると、全てが先生と一緒にいたいと言う気持ちが自然と沸いてきます。そのような霊的に文先生との出会いが続き、祝福に参加するようになりました。祝福の時は、明け方まで、祝福に参加した12人に証を求められ、朝4時ころ証をしなさいと私が指名されました。

そして、「入教して4ヶ月ころ、たとえたった一人になってもメシヤのために、この道を行こうと決心しました」と証したところ、文先生は、「いまでも変わりないか?」と聞かれました。そして、私は、「はい、変わりありません」と答えました。
その時、私の人生において、文先生と因縁を持った者しか報告できるものは無いと感じました。神様は愛と慰労、命がけで人類を導き、このような世界を展開してくださいます。

この方が、今、私を生かしてくださいます。後ろ指を差されることがあったとしても、神様を悲しませることはしない。その瞬間決意しました。夫も、同じようなことを悟っていました。見えなかったとしても、文先生が、いつも一緒にいて、5時、6時になって話が終われば一日が終わる。
そういう生活がどんなにすばらしいのかと言うことです。報告できる内容があることがどれほどすばらしいことかと言うことを感じています。

カテゴリー:今週の説教 - 11/11/05掲載
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