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説教(6月26日)

■題目:神様の真の父母観

■説教:周藤 健 副会長

■御言訓読:神様の手紙

 「愛する真の父母へ」

 わたしは万軍の主(ヤハウェ)である。わたしは万軍の主である。わたしは万軍の主である。わたしの愛する息子よ。わたしの愛する息子よ。わたしの愛する息子よ。

 わたし、万軍の主は、真の父母を愛している。この上なく愛している。この上なく大切である。何をもって感謝と慰労の言葉を息子に伝えることができようか。

 愛しているという言葉よりも、もっと良い言葉があれば、その言葉を借りたいが思い浮かばない。真の父母は、わたしの心の中の深いところに根付いているが、その愛は表現できない。

 真の父母は、今すべてのことに勝利し、すべてのことを軌道に乗せたがゆえに、その立場は、まさしく人類の救世主であり、メシヤであり、王の立場ではないだろうか。

 12月25日、キリスト教とその他の教団が決意文を採択し、真の父母に侍っていくことを満場一致で決議して宣布したので、真の父母は、人類の真の父母の位置につくのがふさわしく、そのみ旨を成すことを万軍の主は願う、願う。

 もちろん、多くの世人たちは理解できないかもしれないが、内的立場は立てなければならないがゆえに、万軍の主は、真の父母を王の位置に推戴(すいたい)する。

 そのあらゆる獄苦の立場、受難の立場を、万軍の主に代わってすべて払ってくれたので、万軍の主の心情は、感謝と、感激と、興奮とありがたさに満ち、これからは、真の父母にすべてのものを譲り渡してあげたい、すべてのものを相続してあげたい。

 わたしの愛する真の父母。神様は、多くの哀訴の日々を送ったが、長い間この機会を迎えることができなかった。今、万軍の主の心情をくみ取ってくれた。それゆえ、この大切で貴重な時間にわたしが愛する真の父母に、感謝の心を伝えようと思う次第である。

 真の父母、わたしの愛する真の父母。わたしの懐の中に抱いて、抱き締めて、離したくない真の父母。二本の足で歩くことがもったいない。夜通し抱き締めて、心のすべてを打ち明けたい。

 万軍の主は信じる、真の父母を信じる。その間の胸痛む事情、経験した苦難と辛さを主は知っている、記憶している、すべて見てきたのである。

 全てのことが神様の責任であることを真の父母が耐え忍び、勝利の基準を立てたのだから、どうして万軍の主が真の父母を忘れることができようか。ありがとう。感謝している。本当に御苦労だった。わたしの愛する真の父母、万歳、人類の救世主、万歳、万王の王、真の父母、万歳。

 万軍の主が、わたしの愛する真の父母に切実に伝える。

■説教内容

今日のテーマは「神様の真の父母観」神様はメシアをどう見ているか、易しく言うと、神様のメシア観です。皆様もそれぞれのメシア観を持っておられると思いますが、神様は一体どういうメシア観を持っておられるのでしょうかという話です。皆様は関心ありますか?

さて聖書によれば、創世記の第1章27節に神様はその形のごとくに人を作られ、そして男と女に作られたとあります。ご存知ですか?

人間を神様の似姿に作られた。ここにあるのは堕落した人間ではなく、本然の人間なんです。最初のアダムに罪がありましたか?罪がないから清いでしょう。ならば清い神様の鏡ではないでしょうか。そうして生まれたのがアダムです。ならば第3のアダムも一点の汚れのない神様の息子として、神様を映し出す鏡としてこられた、生まれながら無原罪の存在として、たった一人の方です。神様は3人のアダムを送られました。第1は消え、第2は十字架、そして3番目と神様はたった3人の清いアダムを送られました。

皆さん。自分の顔を見る事が出来ますか?どんなに頑張っても自分の顔を見る事は出来ません。これは大変な真理です。どうするのですか?鏡でしょう。だから神様はアダムを作られました。その鏡は一点の穢れも、ない鏡です。それを見た人はどう言ったでしょうか?

清い鏡、汚れやひずみのない鏡、それに一体誰が映っていますか?自分でしょう?そういう風に見つめてみれば、この鏡に対して私たちの社会はどのように言ってきたかというと、結局その鏡が清い鏡であるからこそ、そこに映し出されているのが自分であることに気づかない、自分の姿に気づかない。だから鏡の中にいる奴が悪いと言ってきたのです。鏡が悪いと。

イエス様が来られた時もそうでした。偽キリスト、神を冒涜するものと言って、鏡をたたき割ってきました。どうなったかというと結局十字架に付けられました。何の解決にもなりません。そして新しいより大きな鏡が来た時、そこに映る姿は、やはり自分の姿です。

この拉致監禁問題、反牧の牧師、その他、お父様を否定する人、迫害してきた人、結局それは全部自分の姿なのです。これを解決するには自分が変わらなければ、鏡は変わらない。解決しません。これが難しいんです。

考えてみてください。神様は反牧の人、拉致監禁の人、教会を抹殺しようとしている人、神様はこの鏡を見てどのように感じていらっしゃるのか。神様のメシア観とは何か。神様のメシア観が最も正しく間違わない、メシア観ではないですか?私たちは信仰を持っているとはいえ、ズレています。これを修正しなければ、何十年信仰を持っていてもだめです。

基準となる神様の持っているメシア観とはどういうものでしょうか。私たちが神様から離れていればいるほど、私たちの持っているメシア観は狂っています。神様の前に映し出されたメシアの姿はまさに神様の姿、そのものです。清くて、心情にあふれた、その心情と言うのは愛したくて、愛したくてしょうがないという衝動が心情。

しかし、愛したくても対象がいなければ、愛することができない。その神様の対象として映し出すのがアダムとエバです。そのアダムが本当に究極的に神様の喜びとなるためには責任分担を果たさなければならない。それを完璧に果たしてこそ初めて神様の喜びの対象となれるのです。

その責任分担というのが、「取って食べてはいけない」ということなのです。しかし、取って食べてはいけない、というそれだけではいけません。それだけでは人間は完成しません。愛が完成しなければならない。三大祝福、あるいは四代心情圏といってもいいですが、愛の完成がなされなくてはなりません。神様を愛し、夫婦を愛し、兄弟を愛し、子供を愛し、その愛を、それを生活圏内になしとげてこそ、初めて人間が完成します。   

神様が願っていらっしゃるのは、神様は対象の中に住んでみたいということ。アダムと一つになって、アダムと住んで共同生活圏を成して、アダムが感じる時、神様の無形の五感が共鳴する。このようにして、一緒に生活する、例えば美しい花を見て「ああ、きれいだなあ」と思う時、その花の香りをかいで「ああ、いい香りだなあ」と感じる時、人間の五感と神様の無形の五感が共鳴現象を起こし、五感の喜びが、神様の五感の喜びとなる。

そのようにして神様も経験的に完成していく。そうであれば神様は人間なくして経験することができなかったのです。清い人間の五感の喜びが神様の五感の喜びとなった。そのように人間が幸せにならなければ神様も幸せがないんだということです

神様が喜び、幸せだったときがあったでしょうか?実際神様は、そのような幸せな時は、本当に体験したことがあった神様だったでしょうか?なかったのです。アダムとエバが幼い時にはあったかもしれません。アダムとエバが自然の中で戯れているとき一緒に戯れている喜びはありました。しかし神様の初愛はあったでしょうか?アダムとエバの結婚式が神様の結婚式のはずでした。神様もともにそのような愛を経験して喜びに満ちあふれるそのような経験は一度もありませんでした。

その神様の夢と願いを奪っていったのは誰でしょうか。それがルーシェルである。清いエバの愛を奪っていったのがルーシェルでした。それを守るのが責任でした。サタンとなったルーシェルに連れて行かれるエバの救いを求める叫び声を聞きながらもどうすることもできなかった神様である。神様は人間の責任分担に干渉することができないということは皆さんご存知ですか?

もしそうであるのならば、子供たちが地獄で泣き叫ぶ声を聞きながらもどうすることもできなかった神様である。百年、万年、経っても、どうすることもできない、人間が責任を果たすまでどうする事も出来ない。一体誰が責任を果たすことができるのか?誰でもできるのではない。一人のアダムが罪を犯したのだから、その罪を清算して、責任を果たしてくれる方でなくてはならない。その方は罪無き方でなくてはならない。

その方が来てくれるまではその罪を清算できない。その方が現れるまでは誰一人として、この問題を解決することができなかった。この方がメシアである。例えば、ユダヤ人が、アウシュビッツのガス室で、殺される時、あまりの苦しさに、前の人の背中を爪で深く切り裂いて、死んでいった。「神様、あなたを四千年侍ってきたのにどうして助けて下さらなかったのですか?」と神様を呪ったその時も、神様はどうすることもできなかった。こういう神様を牢獄の神様、囹圄(れいご)の神様と言います。

劉会長の本体論の講義の中に、神様は岩の中に閉じ込められている神様であり、その方が自分の親であった。その神様を岩の中から岩を手でこじ開けて神様を連れだしてあげたいのがお父様の思いだというお話がありました。

このような神様を一体誰が理解することができたでしょうか。誰も神様のことを理解することができませんでした。神様の事情が分かる人がいなかった。何故?原理が解らなかったから。お父様が原理を解明され、原理が分かればわかるほど、神様の事情が解ってきた。

人間が責任分担を果たさない限りどうすることもできないということ。お父様はこれが分かった時、神様を抱きしめて泣かれ、その洋服も、祈祷室の畳もお父様の涙でびっしょりと濡れていました。顔の形が崩れるほどでありました。自分はどうなってもいい、たとえ誹謗、中傷、罵倒を浴びせられても、化石のようになって身動きの取れない神様をその岩を引き裂いてその中から何とか神様を解放したいと思われた。

そしてそれをついに成し遂げられたのは、2001年1月13日神様を天の宝座に就かせて差し上げたけれども、それはまだ、出発点に過ぎませんでした。神様を本当に解放して差し上げる出発点でした。それをついに完成するのは人間を通じてなので、お父様が完成されてからであります。

お父様お一人では完成することは出来ません。お父様は無原罪で来られました。そのようなメシアを送ることができたのは神様の勝利でありお父様の勝利は、お母さまを生み出して完成させるまで、新婦の完成、創造、この路程と合わせて子女、家庭の完成を成した。それを全部完成された、その主管圏を天宙にまで拡大された。

その出発点は、2010年7月8日「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」の時です。神様が解放されました。その出発点が決定されました。これからは反対するものは皆崩れていきます。そう言う時代がやって来ました。これを出発点としてすべての人類が神様の元に帰ってくることができる事が決まりました。そして始まりました。これから反対するものは皆崩れていきます。私たちが責任を果たす分だけ、やればやるだけ崩れていきます。崩れ始めたら早いです。最後を乗り越えたら、その先は見えている。神様はその向こうを良く知っていらっしゃいます。これを見ていらっしゃいます。

神様をここまで地獄の中から解放されたメシアのことを神様はどう見ておられるのでしょうか。神様の真の父母観はそこには「ありがとう」しかない。抱きしめて涙ながらに抱きしめて、こういう観点です。

平和神経のなかに「真の父母、私の愛する真の父母!私の胸の中に抱いて、抱き締めて、離したくない真の父母!二本の足で歩くことがもったいない!夜通し抱きしめて、心のすべてを打ち明けたい!夜通し抱き締めて、こころのすべてを打ち明けたい!」

もちろん現実は、韓半島統一あるいは日本の使命、様々問題はありますが、その根底には、父母様を抱きしめて、ありがとう、ありがとう、ありがとう、長い間、閉じ込められていた所から解放してくれ、全人類をその内に抱いて抱きしめてみる事が出来るその時を今、作ってくれた。たった一人の息子よ。そのことにありがとうと言いたい。

そういう風にわかってみると、私たちのメシア観と差がありますか?その差が私たちの課題なのです。神様の視点を私たちがどのように相続していくかということができるかということを話したい。皆さん祝福を受けておられますか。妻と呼ばれるためには主人がいないと妻にはなれない。誰のおかげで妻になっていますか。

そういう風に見つめ始めたら、夫観が変わってしまうのです。妻に対しても子供に対しても変わってくるのです。この対象なしにはその愛を出発できないのです。愛という問題をどう生活の中で生活化していくかというのです。お父様の生涯路程、主流属性、絶対、唯一、永遠、不変、創造性、関係性、統一性、これから深く学ぶようになっていくと思いますが、自体自覚、他体自覚など深い内容になっていく、そこに私たちの生活圏を大転換させる秘訣がでてくる。

夫がいるから妻であることができる。子供がいるから親であるという感謝があり、そこから愛が出発していく。愛とは、その人の人生を勝利させてあげたい、完成させてやりたい。その子の人生を完成させてやりたいということです。そのためには愛を投入するしかありません。それは何ですか。それは自分の対象者の存在目的を達成させてあげる事。愛を投入して、4つの愛を勝利させてあげる事。

夫にとっては、子女の愛とは何でしょう、夫の親とは真の父母様であり、その真の父母様をどれだけ慕っていますか。信仰生活はどうでしょう。それに問題があれば投入してあげなければならない。そのために、真心を尽くして、尽くして、尽くしていかなければならない。

自分を忘れて投入する。愛を勝利させてあげなければならない。夫がアベルカインで悩んでいたらそれを解くために真心を尽くしてあげていますか?夫婦の愛で、悩んでいたら、夫を男として本当に幸せにしてあげる。そういうこと一つを考えてみても、生活圏が相当変わる。父としてはどうでしょうか。子供との関係が難しければ、どうしてあげたらいいでしょうか。

本当に現実的なのです。そういう風に見つめる神様が願った姿そういう夫、妻、親、息子、孫、にしてあげる。神様の見つめる見つめ方で見つめながら、神様が本当に喜ぶ対象者にしてあげる。神様の願う姿にしてあげるそれが愛。アベルカインもカインがいるからアベルの立場に立てる。本当に感謝。そのように祈っていったら変わっていきます。愛は自分から出発するのではなく、相手がいてくれて出発することができる。感謝でいっぱいになってくる、そういう体験を少ししなければと思います。

真の愛の属性 p224から

そうであるならば、真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたという事実すら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です。

真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。堕落の末裔である人間が作った国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が真の愛の価値です。

神様の絶対的真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠、のものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践するとき、神様と同居してともに楽しむことができ、同参権、相続権までも享受するようになるのです。

このように、天国に入る絶対必要条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生です。

カテゴリー:今週の説教 - 11/06/28掲載
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