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説教(9月25日)

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■題目:明日を思い煩うこと勿れ!

■説教者:和田康伸 教区長

■御言訓読:マタイによる福音書(第6章25節~34節)

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

■説教内容

食口は復帰された時から歳をとらないと聞いています。内的には精神年齢をいつまでも保ち続けていると聞きます。皆さんはいかがでしょうか?

信仰の道を歩んでいますと神様の心情や事情についての新しい発見が多くあります。実人生の中でこれが神様の心情、事情なんだと教えられることが多くあります。お父様のみ言を訓読しながら、食口との話しの中で、また自然現象の中で神様はいろいろ教えてくださいます。

反面、知らない世界が多くあると感じさせられます。これからも神様は多くのことを教えてくださるに違いありません。そう考えると心が沸き立ちます。

神様の立場からすればたくさんの息子や娘たちに多くのことを語り、教えてあげたいと思っておられるに違いないと思います。そのような人生は価値ある人生だと思っています。

先週はある先生の講話を頂きました。その先生はこういう事をおっしゃいました。『私の人生に於いて、私の願ったことに対して、神様は何も叶えてくださいませんでした。でも、神様は必要なものはすべて与えてくださいました。私の必要とする物は神様はすべて与えてくださいました。』とおっしゃったのです。

私も自分自身の人生を振り返ると本当にその通りだと感じました。私は、神様を誤解して来てしまった部分がいくつかあったと気づかされました。その上で神様はやはり私の親であり、私の必要なものはすべて与えてくださったと感謝の心情を更に深くしました。

これまでの歴史の中で、神様の事を正しく理解して歩んできた人はおそらく一人も居なかったことでしょう。神様に対して悪く誤解をして歩んできたのが我々人類の歴史ではないでしょうか。10人いれば10人の個性があります。人と付き合っていく上でも、その人の性格や生い立ちを理解したうえで付き合わなければ誤解を招くことになるでしょう。

ある韓国人の大学教授が韓国人と日本人の違いをお話しされています。例えば来客の靴の整え方は、帰る時の方向に向けて並べるのが当然のマナーです。しかし韓国では、それは早く帰ってくださいと言う意味になり、とても失礼に当たります。日本人は一般的な人間関係において常に距離感を置きます。しかし韓国では一度親しくなれば、あなたと私は一体ですという感覚であり、本当に仲良くなると私の内臓をも出してあげたいという感覚になるそうです。

親しい仲にはありがとうやすみませんという言葉さえも水臭いということになるのだそうです。その先生が学生のときに、日本の学生と友達になりたい一心で隣の日本の学生の弁当に直接箸を伸ばしておかずを食べたと言います。韓国人の文化として当然の行動でした。親しいならば当然の愛情表現でした。
しかし、もちろん日本人の視線は冷たいものでした。そういうことの繰り返しだったそうです。

日本に来て日本のことが嫌になる韓国人は、日本のその距離感を受け入れがたいのです。本当に寂しいのです。仲良くなれば手を組み、抱きつくのが普通なのです。愛情表現に距離感が無いのです。

反対に日本人の留学生が韓国に行けばどうなるかと言うと、例えば韓国の友人に自分のコーヒーを飲んでもいいと言ったら、本当に全部無くなっていてびっくりします。それも自分が居ない間にです。まさか自分が居ない時に部屋に入ってコーヒーを飲むとは思いません。

それだけでなく歯ブラシも使うと言っていました。それが韓国と日本の違いです。本当に面白いですね。人はそれぞれ違います。

それでは神様と人間との間ではどうなるでしょうか、我々は果たして神様を正しく理解しているでしょうか。統一原理を通して神様を理解しているので極端な誤解はないと思います。しかし人生の中で神様と出会う時に、神様の心情、事情を正しく理解しているでしょうか。教会に導かれる前の私自身の人生を振り返ってみても、神様の事を誤解してきたと告白せざるを得ません。

神様ほど誤解されてきた方は居られません。アダム家庭に於いて、神様はアベルとアベルの供え物は省みたけれども、カインとカインの供え物は省みられませんでした。この行動に対して正しく理解できた人が居るでしょうか。

立派な神学を学び、聖書を読んできた人であっても神様がなぜこのような行動を取ったのか理解することが出来ません。原理を学んだ私達はその理由を知りました。神様はアベルと同じようにどれほどカインを愛していたことでしょうか。

その事が理解できないカインは落胆して顔を伏せました。神様にはカインの心がよく分かりました。出来ることならばカインのそばに歩み寄ってカインを抱きかかえて、『あなたの心の痛みが私にはよく分かる。辛いんだね、苦しいんだね。でも頑張るんだよ。』と声をかけたかったのです。

しかしそうは出来ませんでした。そうしてしまえば人間の5%の責任分担を犯したと言うことでサタンが讒訴して来る事をよく分かっていましたので、神様は非常にそっけない言葉しかかけられませんでした。『あなたの罪が門口に待ち伏せていますが、あなたはそれを収めなければなりません。』としかカインに語ることが出来ませんでした。どれほど神様はカインの事を思われたでしょうか、その神様の心情を今日まで誰も知りませんでした。

アベルもカインも知りませんでした。もしアベルがその事を理解していたならばカインに対して謙遜になってカインに仕えることが出来たでしょう。もちろんカインも憤ってアベルを殺すことは無かったでしょう。この悲劇は、アベルとカインが神様を正しく理解できず、神様の前にどうあるべきかを正しく理解できずに起こってしまったと言うことを、み言を通して知ることが出来ました。皆さんは時としてアベル的な立場、そしてカイン的な立場に立つことがあるでしょう。

一生懸命に行動してもなかなか報われないのに周りの人々はたくさん恵みを受けているような愛の減少感を感じることもあったでしょう。その時に神様の心情や事情を正しく理解できていたでしょうか、分かっているようでも誤解したことがあるのではないでしょうか。

さて、神様と私達は親と子の関係ですが、親の立場がまだよく理解できずにきた部分が多いと感じます。親は子供に本当に必要なのかどうかを考え、もしそうならば、無理しても与えてあげます。

神様の前に息子、娘の立場である皆さんはどうでしょうか。神様は皆さんにどのようにしてくださったでしょうか。私が間違いなく言えることは、必要な物の中で、与えてくださらなかったものは何一つ無かったと言う事です。

危ない時には助けてくださいました。私がかつて、夜に大山に登ったときに真っ暗な中で急に大きな穴に落ちたことがありました。持っていたリュックが木に引っかかって助かったのですが、ぞっとしました。その時は本当に神様が私の手を引っ張ってくださったのだと感じました。もし神様が私の手を握ってくださらなかったならば・・・・死んでいたことでしょう。

神様は必要なものはすべて与えてくださったのです。そういうことが数えれば限りがありません。マッチング家庭のお話を聞くと、予想外の人だったと言うお話をよく聞きます。でもその後数年経つと、私に必要な相対者だと言います。

私の家庭においても天が私に必要な相対者を与えてくださったと思います。我々はもう一度神様が全知全能である事を信じなければなりません。それは観念でなく、実人生を神に委ねなければなりません。聖書には病人がイエス様に癒しを求めて屋根の上から運ばれてきたと言う記述があります。

理解しづらいですが、その当時は地下洞窟のようなところに住んでいたのです。非常に劣悪な環境に住んでいました。衣食住に恵まれていない時代にイエス様は、何を食べようか何を着ようか何を飲もうかと言って思い煩うなと言われました。それらのものは神がすべて与えてくださるとおっしゃいました。

我々は生きて真の父母に出会いました。共にみ旨に携われてどれほど光栄なことでしょうか。神の国と神の義はこれまで観念でしかありませんでした。しかし私達にとっては観念ではありません。神の国と神の義のために生きなければなりません。神から離れればすべてが不安な生活になってしまいます。

衣食住すべてに恵まれた現代人も様々な不安を抱きながら生活しています。心を病んで不安で不安で仕方ない時代です。何が失われているのでしょうか。神の国と神の義の為に生きるという本来の目的が失われて、自分の生活、食べる、着ると言った事に意識が行ってしまえば不安から解消されることはありません。

今こそ神の国と神の義の為に生きるべきです。私のすべてを天に委ねた時に抱きかかえてくださる神様を信じなければなりません。それが信仰の道だと言うことです。尊き真の御父母様と共に行くことが私達の人生でなければなりません。神様を正しく理解してその愛に委ねて信仰の道を歩んでいきたいと思います。

カテゴリー:今週の説教 - 11/09/28掲載
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