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説教(2016年5月29日)

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■説教者:堀 正一 教区長

■御言訓読:天聖経

(第4編 第2章 第3節 25)
25神様のみ前に立っていたアダムとエバが、神様の内情を探ることができていれば、堕落しようにも堕落できなかったはずです。父母は父母として、子女に対して愛の心をもっているのに、子女は父母の深い心情までは分からなかったというのです。

 もちろん、幼くて堕落したのですが、その年齢の幼さが堕落の動機になったのではなく、心情が及ばずして堕落したのです。「あの方は私のためにいる。あの方は私と共にいる。あの方は私と一つである。あの方は永遠に、私と離れようにも離れることができない」と言いながら、神様が一切の問題に関係していることをアダムとエバが感じることができていれば、彼らは堕落できなかったでしょう。

 結局、心情の一致点をもつことができず、神様の願いと自分たちの願いが食い違い、自分の考える方向が神様の考えるものと違ったために、そうすることがそれほど大きな問題になるかが分からず、そうなれば生命の死活問題がどうなるかということを骨肉にしみるほど感じることができずに堕落したのです。

(第6編 第2章 第3節 11)
11喜びは、どこから来るのでしょうか。心の要求に体が応じるとき生じます。心と体が完全な主体と対象になって四位基台を形成すれば、心が願うとおりに体が動くようになります。そのような立場で喜びが来るのです。宇宙の原則である天運が擁護してくれるので、神様と出会える距離が次第に短縮されて、近くなるので喜びが生じるのです。

 しかし、良心の呵責を感じることをして心の相対要素がなくなるときは、結局その主体までもなくなるのです。宇宙の原則というのは、主体だけがいると、対象が反対しなくても追い出す力が必ず現れるようになっているのです。それが悲しみとして現れるのです。喜びと悲しみは、「私」が原因となって生じるのです。

カテゴリー:今週の説教 - 16/06/03掲載
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